礼拝メッセージ要約
2024年8月4日 「からだの贖い」
ローマ書8章
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
私たちの「うめき」と世界(被造物)の「うめき」は連動しています。その「うめき」には意味があります。それは「産みの苦しみ」だからです。すなわち、未来への希望があるのです。その希望とは、来るべき世界・時代として捉えられた神の国への希望で、同時に、神の国の一員である神の子どもとされる希望でもあります。この「神の子ども」はすでに隠れた姿で存在していますが、それがやがて露わになります。被造物全体も、この「神の子どもたちの現れ」を目指して、産みの苦しみをしているのです。
この「神の子どもたちの現れ」に向かって、私たち自身も「うめいている」のですが、パウロは23節で、この事態についてさらに説明を加えています。まず、私たちは「御霊の初穂をいただいている」存在と言っています。神の子どもとは聖霊との相互内在に導かれた者ですが、ここでは、御霊の初穂を受けている、すなわち、聖霊全体では初穂(初回の取り分)と表現されています。聖霊は「もの」ではありませんから、その一部分だけを切り取って受けることはできません。しかし、まるでそれが可能であるかのように書かれている(すなわち、象徴的に書かれている)のは、23節全体の意味があるからです。この節の最後に「からだの贖われること」とありますが、この「贖われる」という言葉と「初穂」がセットになっているのです。両者ともユダヤ教の伝統にたびたび登場することがらで、ここでパウロは、その枠組みを使って語っていることになります。
「贖う」とは「代価を払って買い戻す」という意味です。こでは、さまざまな文脈で用いられます。例えば、初子は神のものですが、それを自分の子として育てるために「買い戻す」行為です。広く言えば、犠牲(捧げもの)全般も、神のこどもとしてのイスラエルの立場を「戻す」ために支払われると言えます。これらは、人が神に支払うというパターンですが、逆に、神がイスラエルを買い戻すということも言われます。このように、買い戻すというのは、神と人との間にある「双方向」の関係を表しています。パウロがここで語っているのは、もちろん、神が私たちを「買い戻す」ケースにあたるのですが、ここで当然の疑問が起こります。神は、キリストの血という究極の代価を払って、すでに私たちを買い戻してくださったのではないかという疑問です。これはその通りで、ローマ書5章でも、私たちは「すでに」キリストの血によって義とされ、神との和解も成立していると述べられています。キリストの血(十字架)は一回限りのもので、将来の贖いのために繰り返されることはありません。とすれば、将来に「買い取られる」というのは、「買い取り」のプロセスの完成と理解するほかありません。
そして、まさに、その「完成」こそが、「からだの贖い」なのです。言い換えると、贖いは「からだ」まで及んで完成するということです。8章4節にある「(神は)御霊によって死ぬべきからだも生かしてくださる」という復活についての箇所と同じことを語っていることになります。
同じこととは言え、ここではさらに内容が追加されています。「からだ」については、すでに「身体を含む」全存在を指していることを学びました。ただし、復活のからだは、今の身体とは異なる「霊のからだ」ですが、いわゆる霊魂のことではなく、あくまでも全人格的存在です。霊化された人間と表現する人もいます。ここで追加されているのは、単に聖霊によって復活するというだけではなく、聖霊の初穂という表現が使われている点です。「聖霊によって」と言うと、「聖霊の力が私たちのからだに及んで」というイメージがします。それはそうなのですが、重要なのは「初穂として」という部分です。「初穂」は「初子」と同じことを指しています。初子が動物で初穂は植物という違いはありますが、どちらも、無条件に神の取り分であるという意味と、後に大規模に起こることの初め(第一弾、手付)といったニュアンスがあります。このテーマは8章の後半であらためて触れられますが、ここでのポイントは、聖霊と私たちの「一心同体」の関係です。
「御霊の初穂」とありますが、先に述べたように、御霊の最初の「部分」のことではなく、初穂としての聖霊を意味すると考えられます。これは、後で登場する「長子(初子)としてのキリスト」と関連しています。もちろん、最初の聖霊が与えられ、後に多くの聖霊が来るということでもありません。(その意味では、キリストの場合とニュアンスが異なります)。御霊が初穂なのは、私たちの存在(からだ)のある部分(側面)が、いわば初穂として(つまり、後にくる全面的な出来事の手付として)すでに贖われていることの関連で言われているのです。つまり、初穂としての聖霊という表現は、私たちの贖いが始まっていて、それが将来すばらしい形で完成するということとリンクしているということです。ここに、聖霊と私たちの、切っても切れない相互内在の関係を見ることができます。そして、ここがポイントなのですが、この「相互内在」は静的なものではなく、時間的、歴史的に展開していくものなのです。「初穂」から「完成」という展開です。
この展開は、決して平坦なものではありません。それどころか、産みの苦しみという「うめき」によって進んでいきます。その先にあるのが「からだの贖われること、すなわち復活ですが、それを具体的にイメージすることはできません。文字通り、新しい出来事なのですから。私たちにできるのは、「うめき」を真に「産みの苦しみ」と捉えることです。そして、その苦しみは個人的なものから全人類にまで及び、さらには被造物全体も一体となったものです。これは、個人の苦しみを、単に全世界の苦しみの一部として理解するということではありません。というのは、この「個人の苦しみ」とは、個人の復活への産みの苦しみだからです。(「からだ」は具体的な個人の全人格を指しています)。復活抜きの歴史観では、個人が全体に埋没してしまう危険性があります。「神の子どもたちの現れ」と複数の集合体で書かれていますが、ローマ書でこれまで学んできた「ひとりひとりの人格」のことが土台であることを忘れないようにしましょう。
同時に、この徹底的に個人的な事柄(からだの復活)が、同時に被造物全体の歴史が向かうべき所でもあります。聖霊との相互内在に導かれた神の子どもたちを中心として、全被造物が産みの苦しみに参与しています。この被造物も、詩篇にもあるように、神の霊によって造られ生かされています。(人間も被造物の一員であることは当然です)。このように、すべてのものは、聖霊との関係によって導かれ、歴史を形作っています。目に見える所では、破滅の危険さえ垣間見るような現代社会ですが、それが単なる崩壊への道なのか、それとも産みの苦しみなのかは、第三者的な観点からは見通すことができません。また、聖霊が与えられている者であっても、未来を完全に予測することはできず、黙示(幻)の形で象徴的に語れるだけです。しかし、私たちには希望が与えられており、それは、「神は始められたことを必ず完成される」という信仰によるのです。