礼拝メッセージ要約
2024年7月28日 「今の時の苦しみ〜2」
ローマ書8章
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
「将来啓示されようとしている栄光のビジョン」には、黙示思想的な背景があり、パウロもそれを共有している面があることは前回触れました。イザヤ書などにも、イスラエルの回復を超えた、世界平和や自然界の変貌としった幻が描かれています。これらのビジョンも、キリスト・聖霊との相互内在という実質(すなわち覆輪を伴わなければ、単なる夢物語に終わってしまいます。この前提を忘れずに、ビジョンについて読んでいきます。
私たちの「苦しみ」に続いて、19節からパウロは被造物について語ります。まず、この「被造物」について見ていきます。「被造物」は、世界あるいは宇宙と言ってもいいでしょう。彼の「世界観」には特徴があります。私たちの苦しみと連動して、世界全体もうめいているというのです。同時に世界全体は「神の子の現れ」を待ち望んでいます。このような「世界」とは、単なる物理的宇宙というような、いわゆる機械的な世界観とは大いに異なります。世界観は単なる議論ではなく、人生観の基礎ともなる大切なものですから、自分自身のそれも含めて良く吟味する必要があります。
一般的に、古代、中世の世界観では、物質的な世界プラス天使、妖精などの「霊的」な存在が混在していました。もちろん、現代でもそのような人たちもいるでしょう。しかし、近代以降、世界、宇宙は基本的に物質的なものと考えられ、霊的とされる存在も、不可視の「もの」のように解釈される傾向があります。そのような「もの」の総体が「世界」であり、神はいわばその「外部」から統治しているようなイメージが強くなりました。「創造者」と「被造物」が2項対立しているかのようです。しかし、パウロの言葉を借りれば、「私たちは神の中に生き、動き、存在している」のであって、神と被造物は不可分なのです。神が「もの」ではなく、絶対である以上、これは当然なのですが、そうではないイメージが何故かキリスト教にはあります。それは、罪によって人が神から離れているという事実からもたらされるイメージで、ある意味では仕方がないことなのですが、この「離れている」という言葉を「物理的」にとらえると誤る危険があります。
この「神の中に存在している」ところの「世界」は、決して機械的なものではありません。それは、むしろ「うめき、切望している」ような、ある意味では生命的な存在です。「被造物全体」がそうなのであって、機械的な宇宙の中に(ごく一部に)、生命が存在しているのとは違います。神は「いのち」であり、その中に存在している世界も、ある意味では生きているのです。このような自然観は、近代の機械的な自然観に反して、現代のある種の自然観に通じます。すなわち、地球全体を生命体ととらえる自然観です。人と自然を対立しているものと見做し、自然を支配しようとしてきた西洋の近代以降の歴史を反省するものです。人も自然の一部なのですから当然のことと言えるでしょう。
パウロもこの自然観に通じますが、もちろん、それは地球に限ったものではなく、宇宙全体にまで拡がっています。大切なポイントは二つあります。一つは、人を自然の一部と認めるだけではなく、そもそも、いのちである神にあって存在していることが土台だということです。被造物と創造者との関係から来ているのです。二つめは、被造物の現状をどう認識するかということです。20節に「被造物が虚無に服している」とあります。これは、強烈なメッセージです。この「虚無」という言葉は、「目的がない」というような意味です。古来よくあった「自然・宇宙は多少の変化はあるものの、長期的には同じことの繰り返しだ」という世界観に対して、生物や自然は「進歩という意味で進化している」という世界観が近代から広まりました。弱いものから強いものへ、愚かなものから賢いものへという進歩で、それこそが存在の意義であり目的であるという考えです。(ちなみに、通念に反して、ダーウィンは進歩としての進化の概念を推奨せず、進化自体には目的を認めていません)。
パウロは、被造物から目的が失われていると言います。本来は目的があるのですが、「服従させたかた(神)」により、それが封印されていると言えるでしょう。もちろん、世界は変化し続けており、しかも加速しています。変化の中身とは「隠れているものが露わになる」ことで、それは今も変わりがありません。ですから、この「方向性」自体は失われていないのですが、その「目的」が失われていることになります。いわば、意味もなく、やみくもに「暴露」が続いている状態です。それは、目的と意味を欠いている状態であり、「虚無」と訳されている所以です。この「虚無」は、創世記冒頭にあるアダムの堕落と関連して解釈されます。人の罪のために、なぜ自然がおかしくなるのかという問は、今日の自然破壊の前には空しいでしょう。ただし、この現代的な状況を引き合いにだすまでもなく、創世記には、自然と人は一体であるという、論理的必然のことが記されているのです。
露わになりつつなるのに目的が失われているとは、真に露わになるべきものが未だ露わになっていないということです。そして、この「真に露わになるべきもの」が何であるのかを、実は被造物も知っているとパウロは言います。知っているどころか「切望している」のです。被造物は、その一部である私たちと共にうめいているのですが、そのうめきとは、この「切望」のうめきです。20節末尾の「望み」もこのことです。この「切望」の対象、すなわち、真に露わになるべきもの、それが「神の子どもたち」です。ですから、この苦しみ、うめきが「産みの苦しみ」と表現されているのです。ここで私たちは、自然・宇宙と「神の子どもたち」との深いつながりを理解する必要があります。もちろん、神の子どもを「産む」のは神ご自身ですが、神の子どもは、自然・宇宙の必要不可欠な存在だということです。言い換えると、この宇宙は、その一部に神の子どもを含むように造られているのです。その本来の在り方は、人の罪のために歪められたのですが、今や神はそれを正し、本来の目的にそった宇宙にされるのです。
「神の子どもたちの現れる」とは、彼らがどこからか地球にやってくるのではなく、「神の子どもたちが露わになる」という意味の言葉です。今風に言えば「カミングアウト」のことで、隠れていたものが公になるということです。つまり、今のところ、神の子どもたちは隠れているのです。外から見れば彼らはただの人間です。内側に関しては、自分の霊が御霊とともに「アバ、父」と神を呼んでいます。ですから、完全に隠れているとは言えませんが、それも外から見れば、単に「キリスト教信者」という人間でしょう。聖霊との相互内在は目で見ることができません。そして、相互内在の必然的結果は、からだの復活ですが、それも今はまだ見えません。その意味で、神の子どもたちの現れは将来のことであり、それを私たちも全宇宙も切望しているのです。