礼拝メッセージ要約

2024721日 「今の時の苦しみ」

 

ローマ書8章

18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 

19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。 

20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 

21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 

22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 

23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 

24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。 

25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

 

ここまで、聖霊との相互内在によって神の子どもとされた私たちはキリストとの共同相続人であることを学びました。この相続は、現在のことでもあると同時に、将来完成することがらでもあります。このことから、パウロはここで壮大な将来へのビジョンについて語ります。このビジョンについて読んでいきましょう。

 

前節で、私たちがキリストとの共同相続人であることには、キリストと共に経験する苦しみも含まれていることを学びました。パウロは、この「苦しみ」という言葉を契機にして将来のビジョンを提示していきます。「今の時のいろいろの苦しみ」とありますが、この「今の時」とは、カイロスという「時代」を意味する言葉です。もちろん、個人が今地上で経験する苦しみという意味にとって、死後に天国で受ける栄光と比較する文と解釈することもできます。しかし、やはりそれは「応用」の解釈ですから、まずは、もともとの文脈で読む必要があります。すなわち、ユダヤの預言者たちや、いわゆる「黙示思想」的な背景をふまえるということです。

 

この「背景」にもバリエーションはいろいろありますが、今までも学んだように、大雑把に言えば、「今の時(カイロス)」は罪と異邦人が支配する時代であり、その時代はやがて(メシヤの到来と共に)裁かれ、「後の世・時(カイロス)」が訪れるというものです。その暁にはイスラエルは異邦人の支配から解放され、内部的には律法の支配が完全に回復し、「神の国(支配)」が実現するというものです。それは、まさにイスラエルの栄光の時と言えます。このような背景としてのビジョンをそのまま「機械的に」受け入れる異邦人クリスチャンもいますが、そうでない人もおり、絶えず論争になっています。将来についての論争に今結論がでるはずはありませんから、論争は論争としておいておき、ローマ書のテーマに肉薄したいと思います。

 

まず明らかなのは、パウロもこの「背景」を使って語っていますが、あくまでも「福音」を伝える手段のひとつとして使用していることです。パウロはユダヤ教を異邦人に拡大しようとしているのではなく、ユダヤ教を踏み台として、「律法」(ユダヤ教)を超えることを告げているからです。その必然的な帰結として、神の子どもは異邦人を含む(というより、人種、宗教に限定されない)のです。そればかりでなく、ローマ書では、「今の時」と「後の時」の間にあるとされる「大患難」の時代についての言及もありません。パウロの初期の手紙にはありますし、他の書にもありますから、そのような歴史観が全面的に廃棄されているわけではありませんが、ローマ書ではそのような特別の艱難ではなく、「今の時」の苦しみが問題とされています。そして、ここで鍵となるのはこの苦しみの意味です。

 

この苦しみには二つの面があります。まず、「今の時」の苦しみ全般としての面です。すなわち、個人の経験だけでなく、現代社会のあらゆる場面で経験する「様々な苦しみ」も含んでいます。この解釈は、20節以下で被造物全体のうめきにまでビジョンが拡大していることから見ても順当だと言えるでしょう。当然、この「苦しみ」はあらゆる種類のものを含みます。病、災害、犯罪、戦争、その他あらゆる形の苦しみが世に満ちています。今の時とは苦しみの時と言ってもよいほどでしょう。その中で、たとえ神の子どもとされた者であっても、苦しみ全般から解放されることはありません。逆に言うと、私たちが経験している苦しみは、クリスチャン独自の苦しみであるばかりでなく、世界の苦しみの一部でもあるということです。すなわち、世界の苦しみを共有しているということです。

 

この意味での「苦しみ」と将来の栄光を対比する場合、当然、その栄光は「もはや苦しみが存在しない新天地」の姿を指すことになるでしょう。その場合、黙示的なビジョンが浮かんできます。旧約の預言書にあるように、「オオカミと羊が仲良く暮らし」「いのちの水の川が流れている」ような自然界の変化や、人々が武器を捨て、平和が訪れる」ような、人類の歴史的変化が待望されています。一般的には「ユートピア」と呼ばれるものです。この「将来のユートピア」は、過去のユートピア、すなわちエデンの園との対比で語られます。エデンの園が消滅したままでは、神の創造が完成せず、当然、その完成は将来に展望されるべきものだという、「創造論的」な歴史観です。これは歴史観ですから、それについて、自然科学的な議論をする意味はあまりないでしょう。

 

むしろ、大切なのは第二のポイントです。この「栄光」は、単に私たちの目の前にくりひろげられる新天地の光景だけではありません。「私たちに啓示される」という文は、「私たちの方に(私たちの中に)啓示される」という意味ですから、私たちと独立した「世界の風景」の描写よりも、世界と人間の在り方そのものを語っているのです。それが、前述の「一般的な意味での苦しみ」と区別される「キリストの苦しみ」を通じた「在り方」、すなわち「キリストと共に苦しむ」のことです。それは、まず狭い意味では「クリスチャンならではの苦しみ」で、パウロはそれを激しく体験していました。それは、ほとんど肉体的な死に至るほどのものでしたが、その死をのみ込む「いのち」、すなわち復活を信じ、待望していました。そして、それはパウロだけでなく、いろいろな形で多くの人が経験していることでもあります。

 

ここで問題となるのは、「いろいろな形で経験している」、そのいろいろな形は何なのかということです。これを、単純にあらゆるキリスト教活動と同一視することはできません。キリストと共に苦しむことと、キリスト教活動のために苦しむことはイコールではないのです。パウロが苦しんだのは福音のためです。そして、その内容がまさにローマ書で今読んでいるものです。つまり、ローマ書のメッセージを伝えたがために苦しみを受けたのです。そのメッセージとは、煎じ詰めれば、「主(イエス)の名を呼ぶ者はだれでも救われる」というものです。この文の前半「主の名を呼ぶ」ことについては、実行する人もしない人もいるでしょうし、そもそも興味のない人もいるでしょう。最後の「救われる」についても、望む人も望まない人もいるでしょうし、救いの内容についての議論も尽きないでしょう。パウロは、そのような事柄のゆえに苦しみを受けたわけではありません。論点は「だれでも」にあります。ユダヤ人も異邦人も、男も女も、どんな人も、掛け値なしに「だれでも」救われると語ったからこそ苦しみを受けたのです。言い換えると、救いの条件を人間の手から奪い、神にお返ししたために、救いの手段を所持していると主張する人たちから拒絶されたということです。この「所持を主張する人」は宗教家に限りません。人を支配する者すべてにあてはまります。しかし、彼らの「栄光」は今の時だけであり、神の支配の栄光と比べることなどできません。私たちは、まさにそのような神の栄光を待望しているのです。