礼拝メッセージ要約

2024714日 「相続についてのまとめ」

 

ローマ書8章

12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 

13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。 

14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 

15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 

16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 

17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 

ここまで、「神の子ども」であることについて、相続の観点から読んできました。そして、それが聖霊との相互内在に基づいていることがポイントであることも学びました。私たちは神の相続人ですから、何を相続するのかと問われれば、答えは「神のもの」となるでしょう。それが、いわゆる「約束の地」といった地理的なものに限定されないことは当然です。そこで、ローマ書のこのセクションのまとめとして、あらためて「相続」について整理します。

 

人の場合で「相続」と言う場合、特に三つのポイントがあります。「時」、「条件」、「内容(規模)」です。まず「時」を確認します。それは「被相続人」の死亡時です。では神の相続の場合はどうでしょうか。当然、神ご自身の死亡時などあり得ません。しかし、キリストの死が関連してきます。旧約や新約でいうところの「契約」は「遺言」の意味もありますから、キリストの死によって、新約が有効になったと言われています。(逆に言うと、キリストの死がなければ新約は成立しなかったということです)。すなわち、十字架によって「相続」が確定したのです。ただし、その確定した内容が実際に行われるには時間がかかります。人の場合でも、遺言があれば、その内容に沿って順次手続きを進めていくわけで、場合によってはそのプロセスには数年かかることもあります。「神の相続」についてはどうでしょうか。それは、相続の内容によって決まってくるので、後で検討します。

 

次に「相続の条件」を検討します。人の場合でも、だれが相続人なのかを確定する部分に手間取ります。被相続人の出生から死去にいたるまでの、すべての戸籍情報を調べないと確定しないからです。神の相続でも同様な面があります。ローマ書でパウロが力説しているのも、まさにこの問題です。神の相続人は、ユダヤ人という民族や、ユダヤ教という宗教によって決まるのではなく、「聖霊との相互内在に導かれた人」が該当するというのがその答えであり、まさに福音そのものです。(民族、宗教によらないというのは、もちろんユダヤだけの話ではなく、キリスト教国、キリスト教会に登録されている人といった、外面で決まるのではないという意味です)。その上で、17節に「キリストと苦難をともにしているなら」という条件が付加されている部分が大切ですが、これも「内容」にかかわることなので後で検討します。

 

第三に「内容(規模)」です。「神の相続人」は「神のもの」を相続するのですが、それは具体出来に何なのでしょうか。これまでも見てきたように、まずそれは「神の国」です。神の国は約束に地に設立されるはずのイスラエルと同義ではありません。神の国とは神の支配という意味ですから、それが全世界に及ぶのは当然のことだからです。ローマ4章で、「世界の相続人」と言われている通りです。ただし、ここに重要なポイントがあります。「神の国」がパレスチナにせよ、他の国々にせよ、具体的な「国」を指しているならば、それらが「与えられる」というのは、それらを「統治する」権限が与えられるという意味になるでしょう。実際、聖書にも、それを思わせるような記述はありますし、ある種の団体はそれを公然と主張します。この路線を進めると、実質的に「キリスト教による統治」が神の国だということになってしまいます。(近代以前のヨーロッパはそういう体裁でした)。

 

しかし、ローマ書は、まさにそのことを断固として否定しているのです。ユダヤ教にせよキリスト教にせよ、宗教すなわち律法は人を救うことはできず、むしろ罪を増進するのです。この点が薄められてしまったら、ローマ書を読む意味がなくなってしまいます。(ただし、単なる「宗教嫌い」は、宗教未満に過ぎないのであって、福音がもたらす「宗教を超える」こととは異なります)。神の支配と律法(宗教)の支配は全く違うのです。(もちろん、「宗教」という言葉が、律法ではなく神の直接支配を指しているならば、それは福音と同義になります)。

 

そこで、「神の支配」自体を「相続する」というのはどういうことなのでしょうか。いったいそんなことが可能なのでしょうか。それでは、私たちが「神」になってしまうのではないでしょうか。もちろん、人が神に「成る」などあり得ません。しかし、私たちは「神の子ども(養子)」です。そして、その実態は「聖霊を受ける(相互内在の関係に入る)」ということです。それが、神ではなく神の子どもであることの実質です。そこにあるのは、親と子の絶対的な異質性と、ある種の同質性です。これを、第三者的に観察して論じることには意味がなく、私たちはあくまでもキリストにおいて理解するのです。したがって、「神の支配」を、キリストの支配として理解しなければなりません。

 

そして、それこそが、ここまでローマ書を通して学んだことです。すなわち、キリストとの相互内在であり、聖霊との相互内在です。キリストは私たちの「外部」から強権的に支配するのではなく、私たちの存在そのものを成立させる根底として内在されるのです。しかも、ただ「静的に」内在されるだけでなく、私たちと「人格的」関係を持ち、また、神ご自身を、私たちを通して表現しておられるのです。それがキリストの「支配」であり、しかも、私たちとの相互内在を通して、いわば「私たちを通して」支配されるのです。私たちは、その支配の「表現媒体」であるという意味で、私たちは神の支配の一翼を担っています。

 

ここで肝心なことは、神ご自身の自己表現に「苦しみ」が含まれていることです。神の支配とは十字架の支配です。言い換えれば、「アガぺ(神の愛)」の支配です。私たちに内在されているキリストは、十字架のキリストなのです。17節に、「キリストと共に栄光を受けるために、共に苦難を受けているなら」とあります。これを、単に、「この世での労苦を厭わなければ、次の世では高い地位につける」というような、ある種の殉教精神を強調する話にしてしまうと、本質を見失う可能性があります。あくまでも強調点は、「キリストと共に」であり、それはキリストとの相互内在にあります。相互内在である以上、苦しみも喜びも、あらゆる体験を(意識していなくても)共有しているのです。

 

「苦しみ」も共有しているということは、キリストの苦しみが、単に2000年程前にあった歴史上の出来事だけではないことを意味します。言い換えると、「十字架のキリスト」とは、昔十字架にかかったキリストというだけではなく、今、ここにおられるキリストだということです。キリストとの相互内在とは、十字架のキリストとの相互内在です。昔死んで、その後生き返った人物ではなく、パウロが言うように、十字架のキリストが今生きておられるのです。これはもちろんパラドックス(逆説)です。この逆説を同時に表現するのは難しいため、カトリック教会では、キリスト像付きの十字架を掲げ、プロテスタント教会では、空の十字架を掲げています。しかし、シンボルはどうであれ、私たちは、今、生きておられる十字架のキリストとの相互内在によって神の子どもとされ、現在であれ将来であれ、すべてを「キリストと共に」生きるのです。