礼拝メッセージ要約

202477日 「聖霊の声」

 

ローマ書8章

12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 

13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。 

14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 

15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 

16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 

17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 

ここまで、相続人の観点から「子」とされたことについて読んできました。私たちは、まずこのことを聖書から、より具体的にはローマ書にあるパウロの言葉から学んでいます。私たちにはこのような聖書の証言だけでなく他の証言もあります。(ある意味では、こちらの証言こそが土台です)。16節に「御霊ご自身が私たちの霊とともに証ししておられる」とある通りです。今回はこの箇所を読んでいきます。

 

私たちが神の子どもであることを聖霊が証言しておられるというのは、それだけですばらしいことです。他に何も要らないと言ってもいいくらいです。しかし、不思議なことに、聖霊は私たちの霊と「共に」証言しておられます。いったいどういうことでしょうか。人間的には(ユダヤでは)、何事も二人、または三人の証言が必要ですが、こと神様となれば、ご自身ひとりで十分でしょう。(イエス様の上に聖霊が降りてこられた時も、天からの声(神ご自身の声)が響き、イエス様が神の子であることが宣言されました)。それが、ここでは、私たちの霊も参加しているのは、言うまでもなく、そこに「聖霊と私たちの相互内在」があるからです。聖霊と私たちを分離してしまったら、私たちが神の子どもであることは不可能なのです。ですから、この「内なる証言」こそが、この相互内在の具体的な現れであると言えるでしょう。

 

そこで、改めて「内なる証言」について考えます。一般的に、神が私たちに「個人的に」語るというのは、具体的にはどのようなことなのかという問題です。まず、今回のテキストから明らかなのは、「内なる声」には、聖霊の声と人の霊の声両方があり、厳密に区別されているということです。聖霊抜きでも「内なる声」はあり、「良心の声」を指すことが多いです。心情や利害の立場ではしたくない事でも、いわゆる「汝なすべし」という声が内側から響き、良心的な行動をとるようなパターンです。それは素晴らしいことですが、だからと言って、聖霊とは良心のことだと同一視することはできません。もちろん、良心の声が聖霊の声に反するというのは考えにくいですが、良心は聖霊が来られる前でもあったのですから、やはり別に考えなければなりません。逆に、良心と人の霊は不可分だと思われます。ただし、人の霊自体が無条件に良いものではありませんから、聖霊と共に証言する人の霊は、前節にあった、「霊は義のゆえに生きています」という、キリストの義によって生かされている霊だと言えるでしょう。キリストによって生かされている霊が、聖霊と同じ証言するのは当然のことです。

 

聖霊と人の霊が同じ証言をする前提は、聖霊と人の霊が別であることです。内なる声には二つ(あるいはそれ以上)があり、しかも、それらは通常の頭の中の声(普段考えていること)とも別です。内なる声の一つが良心の声であるとして、もう一つが聖霊なのかそれ以外なのかが問題となります。それ以外でしばしば見られるのは、宗教やイデオロギーによって洗脳されるケースで、指導者の声が絶対視され、それが内面化された場合です。そして、その指導者がカルト的な傾向を持っていれば、それこそ、それに従う人たちは、良心の声に逆らってでも、その団体の言いなりになる可能性があります。場合によっては、とんでもない行動に走るでしょう。初めは良心の声が聞こえていても、それを抑圧し続ける結果、ついには良心が麻痺してしまうのです。

 

このような「信者」以前に、そもそも「神のお告げ」を受けたと主張する指導者もいます。これも、完全に憑依されてしまえば、大きな影響力(時にはオカルト的な力)され持ってしまう場合もあります。この「お告げ」が自分の声と区別できなくなった段階で、その人は「教祖」「キリスト」「神」などと自称するようになってしまいます。さらに、自分とは別の声が「聞こえる」場合、幻聴であるケースもあります。疲労時の一時的なものから、恒常的な精神疾患の場合まで多様です。「お告げ」と「精神疾患」が同時に起こることもあるでしょう。

 

このような複雑な事情があるので、真面目なクリスチャンの間では、「神の声が聞こえた」という主張に対して、慎重、懐疑的な態度をとることが多いです。神の声(ことば)は全部聖書に書いてあるのだから、「声を聞く」などという主観的なものは必要がないと言います。確かに、上記のような「神の声もどき」が多くありますから、それを判別することは必須です。そして、その判別の基準を聖書の記述(それも、一部分ではなく全体)も求めることも当然です。しかし、単に聖書を「理解」するだけで、「内なる声」を拒否してしまえば、そもそも「神の子どもである」ことが、内からの告白ではなくなってしまう危険性があります。ですから、私たちは聖霊の声に耳を傾けることを止める必要はありません。その上で、もちろん聖書と照らし合わせ、さらに、良心の声や道徳一般との整合性も考慮します。ただ、人の聖書理解は有限ですし、道徳的には問題がなくても選択が難しい問題もたくさんあります。

 

このように、「神の声を聞く」のは単純ではありません。しかし、他方で、ある意味では単純でもあります。それが「主(イエス)の名を呼ぶ」ことです。聖霊と歩調を合わせる人の霊は、キリストに生かされている霊なのですから、私たちが主の名を呼ぶのは、キリストに促されて自分の霊で呼んでいるのです。「聖霊によらなければイエスを告白できない」とあるように、主の名を呼ぶのは自分でありながら、そもそも他力(キリストの業)だということを忘れてはなりません。「神の声を聞く」というと受け身の印象が強いですが、私たちは主の名を呼びつつ、主に耳を傾けるのです。

 

もう一つ、「あらゆることを主の名によってしなさい」という勧めもあります。主の名によって為すとは、キリストの代理として行動するという意味ですが、私たちは、その行動によって、キリストの代理からかけ離れている自分を悟ります。主と主の名による自分との乖離を自覚するのです。それが「罪(的外れ)」ということです。そして、その意味での罪は、聖霊によって初めて認めることができるようになるのです。ですから、主の名を呼び、主の名によって行動することにおいて、聖霊が働き、自分の立ち位置が示されるのであり、その「示される」ことも「聖霊の語りかけ」なのです。

 

このことは、静まって「主を待ち望む」ことを妨げるものではありません。座って主の教えを聞いていたマリヤが評価され、もてなしで忙しかったマルタが問題視されることもありますが、その後マルタはマリヤよりも先に「キリスト信仰」を告白したのですから、両者の根本的な優劣の問題ではなく、その場の状況判断の問題だったのでしょう。私たちは、座って話を聞くにしても、歩いて何かをするにしても、主の名によってするのですから、そこに優劣はありません。ただし、やみくもに事を行うのではなく、「聖霊との相互内在」を土台とするのです。すなわち、そこに「人格的な関係」と「自己表現」がキリストによって実現するという、根本的な方向性を堅持する生き方です。その実現こそが、「主の名を呼ぶ者」にもたらされる救いの内実なのです。