礼拝メッセージ要約

2024630日 「子としての相続その2」

 

ローマ書8章

12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 

13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。 

14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 

15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 

16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 

17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 

前回、「相続人」について、相続の話の前に「人」の在り方がまず問題だと学びました。人の在り方とは、キリスト・聖霊との相互内在です。「子」であるというのは、相続人であるというのが、聖書でのポイントですが、相続したいからといって子になることはできず、子である結果として相続があるのですから、子とはどのような存在なのかが重要なのは当然のことです。その上で、今回は「相続」について聖書を読んでいきます。

 

「神の民」が何を相続するのかという問に対しては、すでに旧約の時代から答えが与えられています。「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。」(詩篇165)とあるように、「主(ヤハウェ)」ご自身を、私たちは相続するのです。(ゆずりの地所と訳されているのは「分け前」と言う意味の言葉です)。これは驚くべき言葉です。普通「分け前」とか「相続分」とか言えば何かの物や土地のことを指しますが、そのような地上のいかなる物ではなく、神ご自身こそ私たちが受ける分なのです。これが新約の福音において、「聖霊を受ける」という形で実現したことは言うまでもありません。(このことも、聖霊が単なる神の一部や属性ではなく、神ご自身であることの根拠です)。「父と子」が、「父から子への相続」を意味し、しかも、それは父の一部ではなく父全体のことであるというのが、三位一体の重要な要素となっていることがわかります。

 

「主(聖霊)を受ける」ことそのものに反対する人はいないかもしれません。ここで問題なのは、「主を受ける」ことが、その他諸々(もろもろ)を受けることと同列なのか(優先順位はあったとしても、諸々の中のひとつなのか)、それとも、唯一のことなのかという点です。賛美歌に「キリストにはかえられません。世の何物も」というものがありますが、諸々のものと比較して圧倒的にキリストの方がすばらしいという意味なのか、それとも、そもそも比較することが不可能なのかということです。言い換えると、主と、それ以外のものとの違いは相対的なのか絶対的なのかという問です。心情的にはともかく、論理的には絶対であるはずです。創造主と被造物という組み合わせは、絶対的な区別を指しているからです。

 

しかし、論理はそうであっても、実際問題はそう簡単ではありません。イスラエルにとって、相続はやはり約束の地を指し、同様に、異邦人にとっても、それぞれ「死守すべきもの」(領土や民族、宗教など)があるからです。イスラエルの民にとって、「母なるエルサレム」があり、その他の人々にとっても「母なる大地、母なる国」といった「帰属の対象」があります。それが「父なる神」とセットになっていることは以前触れました。イスラエルの場合、次の聖句が土台にあります。「主は、アロンに仰せられた。「あなたは彼らの国に相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地も所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である」(民数記1820

 

これは、大祭司アロンとレビ族に向けた主のことばです。イスラエルの一般の人々(種族)は、それぞれ割り当てられた土地がありましたが、神殿に仕えるレビ族には土地がありませんでした。土地ではなく「主」ご自身が「割り当てられた」からです。神殿とそれに仕える人々を維持するためには「一般の人」と彼らの土地が必要でした。それは新約の福音の「予型」でした。今や、私たちという人間が神殿であり、同時に祭司でもあります。ですから、私たちが受けるのは「主」すなわち聖霊なのです。ここで注意すべきなのは、レビ人は「主だけ」を相続し、土地は持たなかったという点です。両者は排他的な関係だったのです。私たちの場合はどうでしょうか。

 

もちろん、私たちも、いわゆる私有財産が禁じられているわけではありません。ただ、それらは相続財産ではないということです。これは、個人だけでなく、集団でも同じことです。「天に宝を積む」というのは、もちろんチャリティーのことでもありますが、そもそも私たちにとって、地上の何物も永続的に所有すべきものはないのです。その意味で、私たちには「排他的」に、聖霊が与えられているということです。

 

しかし、ここに大切なポイントがあります。私たちは、「排他的」に主を受けているのですが、その主ご自身はすべてを持っておられるという事実です。しかし、しばしば反射的にこの事実に飛びつき、「だから私たちは神をとおして全てを所有している」と主張する人が現われます。この主張の言葉自体は「ある意味では」誤りではありません。それを裏付ける聖句もいろいろあります。しかし「排他的」に主を受けているとは、他に何も持っていない(無一物)ということです。全てを所有していることと正反対です。この矛盾している両者の関係が問題です。問題がある見方は以下のようなものです。「生まれた時は無一物であった。成長していくらかの所有者となった。ある時信仰に入り、所有物を捨て無一物になった。そして、信仰者として全てを所有する者となった。」という、時系列的な関係です。キーワードは「なった」です。無一物になったり、ある程度の所有者になったり、全てを所有する者になったり変化するパターンです。この場合、無一物と全所有には矛盾がありません。一方から一方に変化するだけですから。しかし、福音はそうではありません。「無一物である者は(主にあって)同時に全てを所有している」のです。そこには「矛盾」があり、両者は相互に相手を否定する関係にあります。それが分かりにくいので、時系列的な変化のパターンに移し替えてしまうでしょう。

 

その結果、キリスト教には「清貧のキリスト教」と「繁栄のキリスト教」という二種類が登場してしまいます。(実際にはその中間の様々な種類があるでしょう)。時系列上のどの時点を強調するかによって、種類が分かれるのです。しかし、私たちは無一物だからこそ(そのままで)主にあって全所有しているのです。この矛盾にある緊張を和らぐために、所有を管理と読み替えることが行われます。自分のものではなく主のものだから管理しているというように。これは正しい判断です。ただし、「今の時代において」という限定がつきます。黙示思想的な表現から言えば、正しく管理した者には、来るべき世において多くが「与えられる」のです。これも、絶対的な真実を、歴史的に展開したパターンと言えます。もちろん、私たちは歴史の中に生きているのですから、このような世界観の中に生きていくことはある意味では当然です。しかも、この「黙示的」パターンは、前述のような「清貧VS繁栄」といった露骨な問題にはならないでしょう。ですから、現状は「管理者」として徹し、所有は未来とこととして歩む(すなわち相続は未来のこととする)のは健全なことだとも言えます。

 

ただし、やはり、相続を単に未来のこと(あるいは死後のこと)と割り切ってしまうと、福音の最も肝心な点が抜け落ちてしまう危険があります。肝心なこととは、今すでに聖霊を受けている、それが全てだという点です。

そして、その事実は他の何物とも比較することができないということです。