礼拝メッセージ要約
2024年6月23日 「子としての相続」
ローマ書8章
12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
聖霊を受けたことにより、私たちは神の子どもとされました。聖霊は奴隷の霊でなく子ども(養子)の霊ですから、それは必然です。ただし、この「受けた」という表現には注意が必要です。この「受ける」という単語自体は普通のものです。そこから、まるで聖霊を「物」を受け取るかのようにイメージしてしまう危険性があります。ここまで学んできた通り、この「受ける」は「相互内在の関係に入る」という意味に理解しなければなりません。聖霊との相互内在の関係になるということは、キリストとの相互内在の関係になるということです。聖霊はキリストの完全な自己表現であり、キリストは御父と完全な人格(位格)的関係を持っておられます。ですから、聖霊ご自身が御子の霊なのです。その聖霊と相互内在の関係に入った私たちが、聖霊によって神の子とされる(すなわち神の養子となる)のは当然のことです。その結果、私たちも地上のイエス様が祈られたように、神に向かって「アバ、父」と呼ぶのです。
「アバ」というのは「おとうさん」というような、親しみのある呼び方だと言われています。聖霊が恐怖の霊ではないばかりか、その正反対の霊であることが示唆されています。ただし、この「親しみ」の質が問題です。しばしば、それを人間の主観的な情感に引き寄せようとしますが、やはりローマ書全体(そして聖書全体)を土台としてしなければなりません。まず、神を父と呼ぶこと自体について確認します。ユダヤ教の伝統でも、神を「父」と呼んできました。ユダヤ民族の父であることは当然ですが、個人にとっても慕うべき存在でした。(ユダヤ教の神は恐ろしいばかりで、慕うことができなかったというのは誤解、曲解でしょう)。「アバ」はその中でも親しみのある呼び方ではありますが、その「親しみ」は、私たちが勝手に作り上げるものではなく、御子が御父に対して持っておられる「質」であることがポイントです。ですから、私たちに必要なのは、自分の中に「幼子の感情」をかきたてることではなく、キリスト・聖霊との相互内在の現実に生きることです。
その大前提の上で、私たちは「父よ」と祈るのですが、しばしば言われるのは、何故「父」であって「母」ではないのかということでしょう。「母なる神」というイメージは日本に限らずかなり普遍的に見られるので、ユダヤ人はあえてそれを避けたという見方もあります。あるいは、家父長制度の伝統のせいだという人もいます。そもそも神は人ではないのだから、父でも母でもないだろうという主張もあります。どれも、それなりの理由はありますが、まずはユダヤ人の文脈で見る必要があります。彼らの中で、神が父であるのは絶対ですが、実は神とは別に「彼らの母」もあります。それは「エルサレム」であり、ひいてはエルサレムを中心とした「約束の地」イスラエルです。すなわち彼らの「母なる土地」です。それを抜きに彼らの宗教を理解することは不可能です。このことは、今日の世界状況を見ても明らかでしょう。あえて言えば、彼らの多くにとって、父なる神以上に母なる国土が切実な問題なのではないでしょうか。実際、イスラエルには宗教的な人(伝統的、保守的ユダヤ教徒)だけではなく、無神論や他宗教の人もいますが、多くの場合、シオニストという点では一致できています。その意味で、ユダヤ信仰は見た目のユダヤ教以上に大きいのです。
ですから、私たちは抽象的に「父としての神」を考えたり、地上の父親像を無理やり神に当てはめたりするのではなく、以上のような事柄全体が聖書のメッセージの背景にあることを理解しなければなりません。約束の地問題抜きの議論は無意味だということです。さらに言うと、ユダヤ教には「父なる神」のイメージだけでなく、「夫である神」と「妻(ただし不貞)であるイスラエル」という象徴もあります。単なる親子のたとえだけでなく夫婦のたとえもあるのですから、ものごとは多面的に捉えなければなりません。当面は「父と子」の方だけを考えます。「父と子(息子)」のたとえの中心にあるのは「相続」です。息子(特に長子)が相続人であるという文化が背景にあり、それを「たとえ」として使って神の約束の地のことを語っているのです。
このような「神と土地(国、領土、民族)」がセットであるのは、別にユダヤ教だけのものではありません。むしろ、古代から宗教は多かれ少なかれそのような要素を持っていました。日本でも皇室と日本列島との結び付きがあるのは言うまでもないでしょう。そのレベルだけで見れば、ユダヤ教も一民族宗教と言えます。ですから、問題は「相続」なのです。相続するものは、単なる「所有物」ではなく、ある意味では「母」とも言える、自分たちが帰属する場所でもあります。そして、パウロが福音によって告げているのは、まさにその「相続」が、「約束の地」とユダヤ人が考えているものとは違う(少なくとも超えている)という、決定的、革命的な宣言なのです。それがユダヤ人にとって革命的(すなわち、人によっては冒涜的)であるのは、容易に想像できるでしょう。パウロはユダヤ教の根幹である枠組みを拡張し、全く異なるものにしてしまったのですから。(ある意味では、「母」が侮辱されたように感じるのかもしれません)。異邦人も神の子ども(すなわち相続人)とされるのですから、約束の地は、もはやパレスチナに限定されないのです。
しかし、これは物事の半面に過ぎません。異邦人はこの半面しか見ずに、単純にユダヤ教という民族宗教がキリスト教という世界宗教に拡張されたと解釈する危険があります。また反対に、ユダヤの伝統にこだわって革命的要素を矮小化する異邦人もいます。ユダヤ教の拡張版としてのキリスト教では、母なるエルサレムに代わって、それぞれの国土に根付いた国家・民族主義がはびこったり、各地の地母(母なる大地を象徴する女神)信仰を統合するマリア崇拝が存在したりします。反対には、キリスト教シオニストがいます。人間の限界と言ってしまえばそれまでですが、そもそもローマ書のテーマから逸脱していると言わざるを得ません。
福音が告げているのは、もはやユダヤ人に限らず、キリストとの相互内在に召された人が神の子どもであり、子どもとして正当な「相続人」であるということです。4章で「世界の相続人」と表現されていた通りです。言うまでもなく、世界中のクリスチャンがパレスチナに移民するという話ではありません。この「世界」はもちろん全世界ですが、現状の世界ではなく「神の国」です。死後に行く「あの世」ではなく神が支配する新しい世界のことです。「御国が来ますように」と祈っている通りです。このあたりの消息は、一般的なキリスト教のイメージよりも、ある種の新興キリスト教団体の方が主張している面もあります。ただし、その「相続」は、特定の団体への所属や実践によるのではなく、徹頭徹尾「信仰」を通して恵みによるというところが大前提です。そして、
「相続」は、ただ人々が復活して新天地に生きるという、時系列的な話だけではなく、むしろその実質が大切です。「相続人」の「相続」よりも「人」の内実が肝心なのです。その内実が、キリストとの相互内在であり聖霊との相互内在です。この相互内在がなければ、私たちは「神の子ども」ではなく、単なる宗教人にすぎません。しかし福音(良い知らせ)は、この「相互内在」の奇跡が恵みとして与えられると告げるのです。「だれでも主の御名を呼ぶ者は皆救われる」のです。