礼拝メッセージ要約

2024616日 「養子にする霊」

 

ローマ書8章

12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 

13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。 

14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 

15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 

16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 

17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 

前回の箇所の最後に、聖霊が復活につながることが示されました。パウロはここで改めて4章のテーマを引き継ぎます。4章ではアブラハムの信仰を例にして、神の絶対的な恵みが告げられました。その恵みへの応答が「信仰」ですが、私たちにとっての「アブラハムの信仰」は、キリストの復活を信じる「復活信仰」であると書かれています。この復活信仰を出発点として、続く5章から7章までの議論が展開され、ついに8章の「聖霊」のテーマまでたどり着いたわけです。そして、8章でも、「復活信仰」から改めて聖霊について学んでいくのですが、当然4章との関連をふまえる必要があります。その関連とは17節にある「相続人」というテーマです。

 

4章で、「神の相続人」とは、物質的な「アブラハムの子孫」すなわち「ユダヤ民族」とイコールではなく、「アブラハムの信仰による人」のことであると言われました。(その信仰は今やキリストの復活信仰です)。この相続人の実体が聖霊との関係で述べられます。逆に言うと、聖霊を離れて復活信仰は無いということです。このあたりの消息を読んでいきましょう。

 

まず12節です。「私たちは、肉的に生きるという、肉への負債を背負っている存在ではない」という内容の文です。肉的に生きることから自由だという意味です。もちろん、負債が無いのに、わざわざ肉的に生きる可能性も残されているわけです。そのようなことをしていると「死ぬのです(13節)」とあります。直訳すると、「死別の瀬戸際です」となります。(瀬戸際とは、すぐに死ぬという、差し迫った警告です)。死別の意味は記されていませんが、神の祝福から離れて滅んでしまう危険を述べていると考えられます。それと対比されるのは、御霊による歩みですが、ここではより具体的に「御霊によって、からだの行ないを殺す」と説明されています。これは、どういう意味でしょうか?

 

まず、ここの「からだ」は「ソーマ」であり、「肉」ではありません。肉(サルクス)であれば、いわゆる肉的な「生まれつきの悪い傾向」か「肉体」を指します。前者であれば、通常、悪い欲望を殺すというような意味になり、後者であれば、肉体を傷めるような修行を連想させる内容となります。しかし、「からだ」(ソーマ)はそれとは違い、全人的な「人」を指しています。普通、それ自体に悪い意味はありません。キリストのからだ(ソーマ)という表現もある通りです。では、なぜ「からだ」が問題なのでしょうか。実は、パウロはここで単に「からだ」ではなく「からだの行ない」を殺すと言っています。前回、「からだ(ソーマ)は罪のゆえに死んでいる」という箇所を読みました。身体を含めた全人的な状態のことで、「古い人」とも呼ばれています。それはすでに死んでいるのに、改めて御霊によってそれを「殺す」というのは、なぜか死んでいる「古い人」の行為というものが今でもあり得るからです。すでに6章でも学んだように、「古い人が死んだ」というのは、消滅したということではなく、神の裁きがすでに行われたので、私たちは罪(罪責)から解放されたという意味です。罪の奴隷ではなくなったのです。つまり自由人となったのですが、今やその自由をどう使うかということが問われています。答えは肉ではなく御霊による歩みです。そして、この御霊による歩みを妨害しようとする力があることが問題なのです。古い人の行いが厳然として存在しており、私たちはそれを断固として退けなければなりません。

 

これまで何度も確認してきたように、この「古い人の行い」とは、単に世俗的な欲望のことだけではなく、より深刻な「律法主義」を指しています。世俗的な堕落にも増して、宗教的な束縛こそ恐ろしいのです。肉ではなく御霊に導かれるとは、律法主義によらずに聖霊の自由の中で生きるということです。そのような者が、ここでは「神の子ども」と呼ばれています。14節に「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」とある通りです。この「神の子ども」というのが、4章で語られた「相続人」、すなわち「アブラハムの真の子孫」です。繰り返しますが、肉による子孫=ユダヤ教徒、対して信仰による子孫=キリスト教徒という外面的な対比ではありません。律法主義から解放され、その結果、罪の力ではなく御霊に導かれる人が、真の子孫なのです。(キリスト教徒であっても律法主義の下に囚われているなら意味がないということです)。

 

律法の下にある奴隷ではなく神の子どもであることを、私たちはどのように体験するのでしょうか。それは、私たちに与えられた聖霊の「質」によります。三位一体から学んだように、聖霊は単に神の力や知恵といった属性の表れではなく、神ご自身の完全な自己表現です。それも「御子」を通しての表現です。(あるいは、御子ご自身の表現です)。ですから、聖霊は神の御子の御霊です。言い換えると、聖霊は御父と御子の関係(位格関係)を完全に表わしておられます。その御霊との「相互内在」に私たちは導かれるのです。「子としてくださる御霊を受けた」とはそういう意味です。「受けた」という表現から、何か自分の心の状態だけを気にする場合がありますが、あくまでも相互内在だということを忘れてはなりません。

 

「子としてくださる」と訳されているのは、原語が「養子」だからです。キリストが実子であり私たちは養子であるという区別は重要です。しかし、ここでの強調点は質的な違いや上下関係の区別よりもむしろ、共に「子」であるという共通性です。神は実子と養子を差別されないという意味です。(キリストが先であり私たちが後であるという順序という区別はあります)。

 

「子の霊」ですから「奴隷の霊」ではないのは当然です。子と奴隷の対比とは、聖霊と律法主義の対比です。ここで注目されるのは、奴隷の霊が人を恐怖に陥れると表現されていることです。この表現は誤解を受ける可能性があります。律法主義者は、自分の行動が裁かれるのではないかと、いつもびくびくしているという誤解です。もちろん、そういう人もいるでしょうが、真に「恐ろしい」のは、自分は律法を守っている正当な相続人だと自負している人です。(パウロも以前はそのようでした)。そして、そのような基準によって他人を裁き弾圧さえ厭わない律法主義者こと、本人の自覚がないままで、真の「恐怖」に陥っていくのです。ですから、ここでの恐怖とは、人間の主観的な感情ではなく、神の前で起こりえる真に恐ろしい事態のことです。

 

聖霊は、二度とそのような状態に私たちを導くことはありません。聖霊は奴隷ではなく自由の御霊だからです。それは、聖霊を受けた者は何の恐れも抱かないという意味ではありません。聖霊によってこそ、私たちは罪を認識します。また、真の意味で「神を畏れる」ことができるようになります。それは、キリストが地上で人として歩まれた時にどのようであったかを見れば明らかなことです。「子」は「父」を敬います。同様に、私たちは、子として自由の身になったからこそ、真に神を敬い、感謝と賛美を捧げるのです。対比は「恐れ」と「安心」という主観的感情ではなく、「奴隷」と「自由」という対比です。そこにこそ、真の喜びがあるのです。