礼拝メッセージ要約

202469日 「聖霊の相互内在その2」

 

ローマ書8章

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。 

11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 

前回、聖霊との相互内在を、神殿の角度から見ました。旧約やその他一般的な「神の霊が下り満たされる」ことと、「相互内在」は異なることも学びました。一般に「霊に満たされること」とは、神の知恵や力と言った「神の属性」が人に宿ることです。それはキリストの十字架とは関係なしに起こり得ます。福音は、そのような神の霊一般ではなく、あくまでもキリストの御霊が相互内在してくださることを告げます。いわば、聖霊は人格化(位格化)された霊なのです。そこで、三位一体の話の中で触れた「人格関係」と「表現関係」を振り返ります。父と子に「人格的関係」を見、父と聖霊に「表現的関係」を見ました。「産む」と「発出する」という言葉から導かれたものです。この二つの「関係」は区別できますが、相互に関連しています。それは「子」と「聖霊」が区別できると同時に不可分の関係にあることに対応しています。

 

人格を「我と汝の相互内在」という観点から見てきました。これは基本ではありますが、誤解を与える可能性もあります。相互内在を、何か「意識」や「心」の問題に限定してしまう可能性です。これはある意味当然です。物質的な「相互内在」などあり得ないのですから。キリストとの相互内在が、生身のイエス様と生身の人間の相互内在であるわけがありません。キリストとの相互内在は聖霊(キリストの霊)との相互内在である所以です。しかし、だからといって、この「相互内在」が物質(肉体)と無関係というわけではありません。聖霊の働きは肉体にも及ぶのであって、イエス様や弟子たちが病人を癒したのも神の霊によってでした。このことを、一般的には、「霊が物質にも影響を与える」というように解釈し、それはキリスト教に限った話ではありません。

 

しかし、聖霊はキリストの霊ですから、そのような理解は十分ではありません。あらためて「人格的関係」と「表現的関係」が「ひとつ」である事態を知る必要があります。まず「人格」について、今まで触れてこなかった点を見ます。人が「人格」を持っていると言えるには、他との相互関係があるだけでは不十分です。その人に、ある程度の一貫した面(生活態度やものの考え方等)が必要です。その内容の良し悪しは別として、それが無ければ人としては崩壊していることになります。すなわち、その人の身体を含めた存在全体が人格の土台となっているのです。逆に言うと、その人の身体・生活という存在全体が、人格を「表現」しているということです。簡単に言うと、人は自身を表現している、表現的存在なのです。(言論、創作活動から化粧、ファッションに至るまで、人は意図的な表現活動をしていますが、そのような特別な活動に限らず、単純に生きているだけで様々な表現をしています)。

 

ここで表現と人格が関係するのはこういうことです。先ほど、人格には表現の「一貫性」(持続)が必要だと書きました。もちろん、言動の一貫性は重要ですが、人は必ずしも一貫した言動をとりません。人格が成立するために必要な「持続」は、まずその人の身体が土台となります。身体はもちろん「変化」はしますが、生まれてから死ぬまで持続、継続しています。身体が同じなら言動が変わっても同じ人ですが、その逆は成り立ちません。聖書で「からだ」を意味する「ソーマ」は、単なる身体だけではなく「その人」全体を指すと言われますが、その全体、すなわち人格的存在の持続は身体抜きには無意味となるのです。霊とからだ両方が大切だというのはその通りですが、それは「身体」抜きに人格を語ることができないからです。身体抜きの霊は人ではない、すなわち人格的存在とは言えないのです。(あくまでも人間のことで、神や天使の話ではありません)。神が土から造ったアダムに息(霊)を吹き込んで「生きた人(魂)」となったというのは、そのような意味です。

 

以上をふまえて、聖霊との相互内在を考えます。聖霊は神から発出した、すなわち神ご自身(全体)の表現ですが、同時に「子」であるキリストご自身の完全な自己表現でもあります。すなわち「子」の完全な人格的(位格的)表現です。その聖霊が私たちの中に住まわれることは、キリストご自身が住まわれるのと実質的に同じことです。ただし、その内住とは、ただ住んでおられるだけではなく、「表現的」に住んでおられるところが重要です。言い換えると、聖霊は私たちの内でキリストの人格(位格)を表現し続けておられるのです。単に「表現する」のではなく「表現し続けておらえる」ところがポイントです。「持続」が人格の条件なのです。言い換えると、「昔あった神のわざ」、「今行われている神のわざ」、「明日実現する神のわざ」といったものが、単発的な神のわざの繰り返しではなく、持続した一貫性のあるものであり、その持続がキリストの人格(位格)の表現だということです。「キリストはいつまでもかわらない」というのは、無機質的に不変だというのではなく、持続した一貫性のある存在、すなわち人格的(位格的)存在だという意味です。内住の御霊の働きは、まさにそこにあります。

 

この持続が身体と密接に関連がある以上、それは当然キリストにも当てはまります。キリストが死んで単なる霊に「なった」のではなく、キリストは復活されました。使徒信条に「からだのよみがえりを信ず」とある通りです。もちろん、通常の意味での肉体が生き返ったということではありません。パウロは「霊のからだ」と呼んでいます。しかし、単なる「霊」ではなく「霊のからだ」とわざわざ呼ぶのは、復活前と後で何等かの継続を見るからです。そうでなければ、人格的(位格的)事実が成り立ちません。「復活」がすべての鍵をにぎっているのです。11節でパウロが「キリストを復活させた方(神)の御霊」とあるように、聖霊はそのような意味で「具体的な」霊なのです。

 

この箇所からわかるのは、キリストの位格が、キリストと「父」との相互内在とともに、聖霊によって人格的(位格的)持続が成立しているということです。言い換えると、キリストは歴史的に継続して働いておられる歴史的存在でもあるのです。このキリストが私たちの内で「一貫した人格的(位格的)存在」としてご自身を現わしておられるということが、すなわち聖霊の内在ということです。それでは、そのような聖霊の内在によって何が実現するのでしょうか。それが11節に書かれていることであり、ローマ8章のこの後の部分のテーマともなっていることです。

 

聖霊はキリストの御霊ですが、それは「復活のキリストの御霊」としてキリストの人格(位格)表現です。その御霊が私たちに内住し、私たちの人格を成立させてくださるのですから、そこに私たちの復活も関係してくるのは当然です。10節に「からだが罪のゆえに死んでいる」とあります。この「からだ」は単なる肉体ではなく「ソーマ」すなわち人格的存在全体です。そこに「霊が生きている」事態が聖霊によってもたらされました。前者はいわゆる「古い人」、後者は「新しい人」で、全く矛盾するものがひとつとなっています。しかし、キリストは生きて働いておられ、ご自身を現わしつつあります。古い人、すなわち壊れた人格的存在である私たちの中でキリストは働き、私たちを彼との相互内在による新しい人格へと作り変えておられます。この復活のキリストはもはや死ぬことがありません。それならば、私たちの人格も死を超えて続くはずです。すなわち私たちも復活します。永遠のいのちは、すなわち、神との新しい関係によって実現する、永遠性を持った人格なのです。