礼拝メッセージ要約

202462日 「聖霊の相互内在その1」

 

ローマ書8章

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 

肉にある者は神を喜ばせることができません。 

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

前回、キリストと人における「相互内在」について考えました。9節では聖霊と人との相互内在が語られています。同じこととも言えますが、異なるニュアンスもあるので、聖霊についても検討していきます。その際、「相互内在」に含まれる二つの大切なポイントに触れる必要があります。一つ目は前回後半で述べた「否定」という要素です。ABが単純に相手の中にあるのではなく、相手を否定することで肯定するという逆説があるという点です。AとBは絶対に異なるからこそ、相互内在に意味があるのです。二つ目は、三位一体の話にあった「順序」についてです。

 

「異なる」だけでなく「順序がある」とはどういうことでしょうか。繰り返しますが優劣ではなく順序です。我と汝の順序と言うと、我と汝のどちらが先かという話に思えます。しかし事は単純ではありません。まず人称の順という意味では、当然「我」が一人称ですから、我、汝の順になります。(時間の前後ではありません)。これは「観点」の順序と言えるでしょう。簡単に言えば、そう感じ、そう考え、そう語るのは「我」であるというあたりまえの事です。しかし、汝の語りかけによって人格が成立するという意味では、汝、我の順とも言えるでしょう。「作用」の方向性とも言えるでしょう。これも時間の前後ではありません。いずれにしても、このような相関関係を深掘りしようとすると、哲学の議論になってしまうので、先に進みます。ここで重要なのは、このような「人格関係」の理解を背景にして、キリストとの相互内在や聖霊との相互内在を探ることです。

 

まず大切なのは一人称から始まるという、ある意味ではあたりまえのことなのに忘れられてしまいやすい事実です。つまり、他人事、一般論として見てしまうという危険です。あくまでも自分のこと(我)から出発しなければなりません。キリスト(あるいは聖霊)との相互内在を「外から」(第三者的視点から)観察することはできないのです。我にキリストが汝として語りかけるという事態が根本です。その時、我(いわゆる肉)は否定され、逆にキリストのうちにあるものとして肯定されるのです。ただし、キリストは外から語りかける者としてとどまるのではなく、我にうちにある者として、それも十字架にかけられたものとしておられます。この関係が、いわゆる人格関係的なものであることは明らかでしょう。それでは、聖霊の場合はどうでしょうか。ある人は、「聖霊にも聖霊様と言って呼びかける(祈る)べきだ」と言います。聖霊はキリストの霊なのですから、それもあり得るでしょう。(聖霊を単なる神の力とか知恵といった神の属性に矮小化しないということです)。しかし伝統的には、聖霊によって、イエスの名を通して、父に祈ります。

 

というのは、三位一体論で触れたように、聖霊は父から発出するという表現で、父子の関係(人格的、対話的関係)とは異なる、「神の自己表現」の側面を見ることができるからです。人格的相互内在の場合、そこに「否定」という側面があります。「神を見た者は死ぬ」という旧約の伝統が良い例です。(それどころか、神の箱にうっかり触っただけでも死んでいました)。神は恐れられなければなりません。しかし同時に、その旧約時代であっても、神の霊が人々に下ることが何度もありました。神が人に内在するなどあり得ないはずです。(そのために、神の霊を神の力に矮小化しようとするのでしょう)。確かに、それは少なくとも「相互内在」ではありません。従って、新約の福音が告げる「内在」とは異なるでしょう。しかしそれでも、そこに神の自己表現という側面はあります。それが、神の力やきよさなど属性を見せるという形をとったのです。その表現の「器」が預言者たちなどの人でした。この「器」という言葉からは、当然、神の霊の内在が想像できます。そしてその場合でも「否定」の要素はあります。ただしそれは、しもべ(僕)に徹するという形の否定であり、比較的わかりやすいものです。また、逆の内在(神の霊の中にいる人)についても、「人はどこに行っても神の霊から離れることはできない」という、神の遍在という一般論に落ち着いてしまいます。

 

では、新約の福音は何が違うのでしょうか。キリストの十字架と復活によって初めて「聖霊が来る」と言われているのはどのような事態なのかが問題です。すなわち、聖霊との「相互内在」がキリストによって実現するということがポイントなのです。聖霊が私たちに内在するという側面は、私たちが「聖霊の宮(神殿)」となるという形で現れます。今回はこの点に絞って確認します。ここでのテーマは明らかに「神殿」です。ユダヤの神殿は、聖霊の内在を物質的に表現したものです。不可視の神は、神殿という場所でご自身を表しました。この物質的神殿は真の神殿の象徴であり、真の神殿はキリストによって建てられる「私たち」です。この「私たち」は「エクレシア(教会)」や「キリストのからだ」と呼ばれています。この「私たち」は複数ですから集合的な存在です。その意味では霊的、象徴的表現で、それ自体は不可視ですが、その「場」を通して神が現れる(神が自己表現される)ので、その結果は可視的にもなります。ただ、この神殿(私たち)は同時に「この身(私という単数)」でもあります。コリント書で性的不品行を行う者に対して、それは神の宮である自身の肉体を汚すことだと糾弾している通りです。この「肉体という神殿」のテーマはローマ書の続く箇所でのテーマとなります。

 

まずは、物質的な神殿が人による霊的な神殿に転換するという点を確認しましょう。「私(私たち)が神殿である」というのは驚異的な事態ですが、それが軽んじられる傾向があります。キリスト教で「人が教会という場所に行く」という表現が普通に使われているのもその証拠でしょう。私(私たち)が神殿(教会)なのですから、そこに私たちが「行く」のは不可能です。(まだキリストを知らない人々が、クリスチャンの共同体という教会の集まりに参加するということはもちろんあり得ます)。反対に、教会である私たちがどこかに行くということもあるでしょう。それどころか、私たちはあらゆる所に行って福音を伝えます。その意味で、「教会が行く」のです。教会(エクレシア)という生きた神殿は、私たちの交わり(神との相互内在およびお互いの人格的交流)の場であり、しかもそれは固定したものではなく、生きて動くものなのです。

 

この「神殿」は聖霊の場ですから、単純に見ると、私たちは聖霊の中にいると同時に、私たちも聖霊に満たされていると思われます。しかし、聖霊をまるで空気のように遍在していると考えてはなりません。(空気の例えは疑似相互内在です)。聖霊はキリストのものです。聖霊の宮を構成する私たちは赦された罪人です。その私たちが聖霊の宮とされるのは、キリストの十字架による他ありません。私たちは十字架によって否定されることによって、神殿から排除されるべきであった私たちは神殿とされます。そこに聖霊が内在し、聖霊によって神がご自身を現わすのです。聖霊の宮の中心には十字架のキリストが復活者としておられるのです。