礼拝メッセージ要約

2024526日 「相互内在その2」

 

ローマ書8章

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 

肉にある者は神を喜ばせることができません。 

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

前回、人における「相互内在」について考えました。一人称と二人称(我と汝)によって成立する「人格」にかかわることを確認しました。その上で、改めて「三位一体」にかかわる聖書の記述を読んでいきます。9節で、神、キリスト、御霊(聖霊)が交換可能な形で用いられています。今までキリストとの相互内在について語られていたのが、ここでは聖霊の事として語られています。ですから、9節の「キリストの御霊」は、実質的に「キリストという御霊」と読むことができます。私たちは、キリストの内在と聖霊の内在という二つの内在を経験するのではなく、内在はひとつです。だからと言って、キリストと聖霊は全く同じものの別名というわけでもありません。少なくとも、地上のイエス様と聖霊の働きは区別することができるのですから。このあたりにも「三位一体」へつながる要素があります。

 

まず、出発点である「キリストと私たちの相互内在」という表現に絞ります。(9節の聖霊に関する内容も、実質的に霊なるキリストと読み替えることができます)。前回の「相互内在とは何か」の話に戻ります。「我という世界が全て」であった所に、別の世界という、あり得ないはずの存在(すなわち汝)が現れ(語りかけによって)、それまでの我の世界が一旦否定され、同時に、汝の世界に一人の存在として誕生する(すなわち固有名詞を持てる一存在者となる)というプロセス」がその内容でした。「汝が我の中にいて、我が汝の中にいる」という相互内在です。この「内在」の「中」とは根底という意味です。我の根底に汝は語りかけによって存在し、生まれつきのままの我を否定し、逆に我を一人の存在者として確立するという意味です。この「語りかけ」とその結果(すなわち応答)によって人格が成立するのです。

 

しかし、以上の出来事は不完全に成立します。なぜなら、そもそも人の語りかけも応答も不完全だからです。では完全な語りかけとは何でしょうか。他でもない「神の語りかけ(神のことば)」です。注意すべきなのは、この「語りかけ」を単なる会話と混同してはならないということです。会話とは、すでに人格を確立した人と人とが情報を交換することです。しかし、相互内在で問題となっているのは、人格そのものを成立させている「ことば」です。すなわち「キリスト=ことば」が臨むのです。それは、一般論として私たちに提供されている情報ではありません。「我」の根底に響く「ことば」です。この「我」は、罪人(的外れ)の我です。この文脈で言えば、不完全な人格である我です。人格が不完全だというのは、相互内在が不完全だということです。人間のことばは我という世界を完全に否定・肯定することはできません。すなわち、汝も完全な汝ではなく、単なる他の存在(彼)の側面も残っています。従って、我も完全な一人称ではなく、自分という世界に閉じ込められ、しかも反対に、単に「私たち(大勢)の一員」に過ぎない存在であり続けることになります。当然、人間のことばは、「我」という人格を完成することはできないのです。

 

それに対して、キリストのことばは、まず完全に我を否定します。(キリストと共に死ぬのです)。この「死」は、自分の考えや欲など、すべて自分に属するものが拒絶されるという意味にとられることがありますが、ややニュアンスが異なります。「我」が否定されるというのは、我欲が否定されるというよりも、「「我」すなわち世界そのもの」である存在が否定されるということです。天動説から地動説に転換するようなものです。前提となるのは、キリストは如何なる意味でも自分の世界の一部ではないということです。(ですから天からの啓示などと呼ばれます)。それが啓示なのは、人知を超えた崇高なことばだからとか、絶対君主のように命令することばだからではありません。神と人を上下関係に見立て、上から下にことばが下るという、モーセの出来事のようなことではないのです。むしろそれは、我の中心に存在し、今までの「我」を否定することを通して、新たな「「我」の根底」として、「我」を成立させるのです。「もはや私ではなくキリストが私のうちに生きておらえる」のです。キリストが主であるのは、絶対君主のようなキリストが上から人を見下ろし支配しているというのではありません。「我」を否定した上で肯定する、「我」という存在そのものの根底なのです。その意味で、キリストは絶対的な「主体」であり、自分は、その主がおられる場所となっていると言う意味です。このテーマはさらに掘り下げられる必要がありますが、「相互」のもう一方を先に検討します。

 

語りかけと応答からなる人格的関係の一方が、「汝にある我」です。物理的な話ではなく、汝の世界に登場した「我」のことです。キリストの中にある我とは、キリストからの語りかけによって、キリストの中に一個人として存在するようになった「我」のことです。ここに、重大なことがらが隠れています。「我」がキリストの中にあるというのは、物理的にキリストの一部になったことではありません。「霊的」な一部でもありません。人である「我」は単純にキリストの一部となることはできません。「内在」には、相手を否定するという側面があるからです。人がキリストの中にあるというのは、キリストの完全性を否定することになります。いやむしろ逆です。そもそもキリストが神の完全性を否定し人となられたことが始まりです。そればかりか、私たちの罪のために罪人として十字架で死なれたことこそが、私たちがキリストに内在できる根拠なのです。キリストへの内在は、徹底的に十字架のキリストへの内在でなければなりません。言い換えると、十字架を通して、私たちはキリストに内在するのです。

 

この事態を誤解するパターンとして、前述の「空気」のたとえがあります。肺の中にも空気はあり、自分は空気の中にいるというような、空間的、物質的なイメージです。この「空気」をキリストに置き換えたのが誤ったイメージです。この場合、内なるキリストは自分の中の「考え」「信念」と同一視される危険があります。また、「外のキリスト」を「キリストのからだ」とし、それを物質的に存在している「教会」と同一視してしまいます。その結果、自分はキリスト教の信条を保持しており、同時にキリスト教会の一員であるという状態を「キリストとの相互内在」であると解してしまいます。このこと自体(内なる信念と外なる信念である教会が同一であること)が悪いわけではありませんが、問題は、それだけでは相互内在によって成立する「人格」が登場しないことです。人格が存在しないとは、すなわち「個人」が確立されないということです。人が教会という集団の一部になってしまうのです。それでは、会社の理念をわきまえた良き会社員と変わらない構図となってしまうでしょう。

相互内在は、否定によって肯定され成立する人格的関係です。キリストにおいてそれは十字架と復活です。十字架によって私たち(具体的には我)は否定され、復活によって私たちは新しい人として生まれるのです。キリストと共に死に、キリストと共に生きるということです。十字架を介して、キリストは「我」のうちに、「我」はキリストのうちにあるのです。