礼拝メッセージ要約

2024519日 「相互内在その1」

 

ローマ書8章

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 

肉にある者は神を喜ばせることができません。 

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

「三位一体」についての基本的な理解を踏まえた上で、根本的なテーマである「相互内在」について考えます。私たちは、神ご自身の三位一体的な相互内在を観察することはできません。あくまでも、人間における相互内在を「象徴」として理解することで、神の偉大さを賛美するほかありません。そこで、実は私たちにとっても本質的な「相互内在」についてまず考えます。それなしには、私たちとキリストとの相互内在について語れないからです。

 

まず当然ですが、AとBが相互に内在するというのは物理的な事態ではありません。たまに空気にたとえる場合があります。人の中(肺)に空気があり、人は空気の中に生きているというように。しかし、この場合、肺の中の空気と外気は別の空気ですから、相互内在ではありません。物と物との関係では不可能です。物でないとすればどのような場合でしょうか。実は、ここに「人格」(person)の問題があるのです。(神であれば「位格」となります)。

 

「人格」の定義はいろいろありますが、ここで問題となっているのは「人称」の存在です。一人称、二人称、三人称のことです。一人称とは自分のことを指すのだから、その存在は当然のように思われ、また使われています。しかし、そもそも一人称(我)は、それ自体で存在するのではなく、二人称(汝)とセットで存在します。人は生まれたら通常「意識」があります(熟睡時や昏睡時以外)。しかし、幼児には意識はあっても、自己意識(自我)は確立していません。「いや、新生児だって泣いたりして自分を主張するじゃないか」と言うかもしれませんが、それは他の動物にもある生理的な行動の段階です。この段階では、意識はそのまま「世界」です。すべては「自分の世界」なのです。(この「自分」と確立された自己とは異なります)。周りにあるすべてが「自分の世界」ということです。それは、周りのすべてが自分の思い通りになるという意味ではありません。むしろ、自分の外部は、ほとんどがコントロールできないでしょう。しかし、それも含めて自分が経験することすべては、自分の経験です。これは、大人であっても同じです。他人の痛みを感じるとしても痛いのはあくまでも自分です。

 

ですから、その段階では、すべての出来事は、物理的には外部にあっても、経験は自分の内部でされます。これを推し進めると「独我論」といって、世界はすべてが「我」の中にあるという主張に行きつきます。しかし、ここでの「内部」は「相互内在」の「内」ではありません。この段階では、そもそも外部と内部の区別は物理的なものでしかないからです。これを言い換えると、この段階では、実質的に「人称」は確立されていないということです。(ここまでの話を、単に、他人のことを考えない自分勝手な人のことと誤解してはなりません。それは、すでに自我が確立した後の話なのですから)。

 

しかし、このような「すべては自分」である状態を否定する事態が起こります。それは、「すべて自分の世界」に登場する「別の世界(別の「自分」)」が登場することによってです。すべては自分だったのですから、「別の世界」などあり得ないはずです。しかし、この「あり得ないもの」は、自分に語りかけることによって(言語以外の表情などによる場合も含めありますが、言語は重要)登場します。これが「二人称(汝)」です。もちろん、この「汝」の語りかけも自分の内部で経験します。その意味では、他のすべてのものと変わりありません。他と違うのは、「汝」が自分の世界の一部ではなく、逆に、「自分の世界」を破ってしまう存在だということです。(繰り返しますが、物理的には汝も外部の人間ですが、そのような物質の話ではありません)。「汝」は自分の中で経験するのに自分ではない矛盾した存在なのです。「相互内在」の「内」とはそういう逆説的なものです。自分の内部でありながら自分の根底を揺るがすという意味では「真の他者」なのです。(逆に、その他の存在は真の他者ではなく、自分という世界の一部に過ぎないとみなすことができます)。

 

翻って、そのような「汝」が登場したのは語りかけによってでした。この語りかけが起きたということは、「汝」の世界に「この自分(我)」が登場したということです。すなわち「汝という世界」の中に自分(我)があるのです。それも、「汝の世界」の単なる一部としてではなく、汝が我の世界を破ったように、我が汝の世界を破るものとして現れたのです。(我が汝に語りかけることができるということです)。この時、それまでは「自分の世界」がすべてであったのに、この自分が今や汝の中で存在する、一固有名詞を持った存在となります。そして、このような存在を、もともとの「自分」(意識)が意識することを、自己意識、我、自分自身、私などと呼ぶのです。すなわち一人称の誕生です。ですから、一人称というのは、我と汝という関係があって初めて成立するものです。言うまでもなく、この一人称の成立は、同時に二人称の成立でもあります。このようにして、我と汝は、相互に内在し、しかも、内在によって相手の絶対性を否定することによって、逆説的に一人称・二人称の世界を確立します。(三人称の話は複雑になるので割愛します)。

 

この事態(すなわち相互内在)とは、大雑把に言えば、語りかけによって成立する全く異なる「世界」と「世界」が相互に内在することです。ただしこのことは、人間においては限界があります。そもそも人間の言語には限界があるからです。(そもそも語りかけ自体が満足に行われないことさえあります)。その結果、健全な人格は形成されず、大人になっても「万能感」を抱いていたり、逆に、幻の万能を求めても得ることができず無力感に陥ったりします。ですから、常識のある大半の人は、ごく限られた範囲で不完全な「我と汝」の関係を維持しつつ、その他大多数は「彼(よその人)」として、たまに自分の意識に上るだけの存在として接するでしょう。また、そのような世界の中で、人から語りかけられない者は、自分の存在価値を見出せないというようなことも起こるでしょう。いずれにしても、私たちは不完全な相互内在によって、不完全な「人格」を形成しているのです。

 

しばしば「語りかけ」は相互理解の手段に過ぎないと思われます。しかし以上のように、語りかけはまず相手の絶対性を否定し(すなわち、その世界を破り)、そのことによって逆説的に相手を確立します。それが人称のある世界であり、人格の土台です。単に、複数の存在の情報交換ではないのです。単なる情報交換ならAIの方が上手なのですから。情報しかない世界は人格のない世界です。しかし私たちは、本来「相互内在による人格」の世界に住むように造られています。そして、それは、父、子、聖霊という相互「位格」からなる神によるのであり、さらに神はキリストを通して、私たちとの相互内在的、人格関係を望んでおられるのです。