礼拝メッセージ要約

2024512日 「三位一体その2」

 

ローマ書8章

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 

肉にある者は神を喜ばせることができません。 

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

前回、「三位一体」の基本的な意味について学びました。繰り返しになりますが、私たちを救うのは神ご自身であって、「三位一体」の教義の理解や受容といった「人間側の事情」に依存しません。生きておられるキリストとの出会いが命です。ただ、キリストと出会った以上、キリストについてもっと理解したいと望むのは当然のことです。そして、キリストがご自身と御父や聖霊との関係を語られている以上、必然的に「三位一体」と関わることになるのです。

 

「三位」とは父、子、聖霊のことで、三者ではなく三位なのは順序(優劣ではなく)があるからだと前回学びました。父が子を「産み」、父が子を通して(あるいは父と子が)聖霊を「発出」したと聖書の諸記述をまとめています。今回はまず、この「産む」と「発出」という不思議な表現が使われていることについて考えます。まず「産む」という言葉が何を「象徴」しているかです。大前提として、ここに物質的な意味は一切ありません。人間や動物の「産む」事態を連想してはなりません。この言葉でまず浮かぶのは、父と子の「同質性」ということです。父と子は「創造者」と「被造物」の関係ではなく、子も父と同様「創造者としての神」です。しかし、この二位には順序があります。産む方と生まれる方です。ただ、これも誤解を招く恐れがあります。様々な宗教に、親である神が子である神を産む話があります。(当然、父ではなく母が産むことも多いです)。しかしその場合は、親の神と子の神は、たとえ似ていても別々の神です。もちろん、「二位」はそういう意味ではありません。

 

ですから、この「産む」ということ自体をイメージするのは不可能でしょう。それよりも「父と子」という関係が存在しているということが重要です。(母と子ではなく父と子である点については、当時の社会構造との関連も指摘されますが、それは二次的な事柄です)。父子関係が具体的にどのようなものなのかに関わらず、根本的なことは、そこに「人格的な関係(対人関係)」を連想させる要素があるということです。もちろん、人ではないので「人格」とは呼べず、「位格の関係」という無機質な表現になってしまうのは惜しい点です。しかし、私たちは「人格」という比喩を使う以外に語ることはできないので、結局「父と子」という表現に戻ってしまいます。

 

物理的な話なら、父と子よりも双子の方が「同じ」である度合いは強いですが、「同じこと」と順序の両面を表現するためにはやはり「父と子」となるでしょう。ヨハネ福音書冒頭に「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった(原語:神の方を向いていた)。ことばは神であった」という有名な文があるとおりです。「父と子」から導かれる「人格的な関係」は、神についての抽象的な議論ではありません。「人格」と「対人関係」という事柄自体が、単に人同士の事情ではなく、神ご自身から来ていることを言っているのです。神と人とは「創造者」と「被造物」という関係がありますが、それに加えて、神ご自身に由来する「人格」と「対人関係」という性質を持っているということです。ここで注意すべきなのは、「人格」と「対人関係」がセットだとうことです。ばらばらの個人だけを見ても「人格」は語れません。また、対人関係を社会の仕組みとしてしか見ず、人格を無視するのも無意味です。日本語で「人」を「人間」と表するのも、このことに関係しているでしょう。ですから、「人間」を単に、「人はひとりでは生きられない社会的な生き物である」と理解するのでは不十分です。そこに「人格」を見出さなければならないのです。

 

この「同じ、かつ順序のある関係」と「人格」がセットであることは非常に重要なのですが、なぜそうなのかを説明しようとすると複雑な話となってしまうので今回は触れません。ただ、実際問題として理解しておく必要があるのは、この「同じ」とは人格のことであって、ひとり一人の性質ではないということです。人は皆、人格において等しいのであり、性質は多様です。また、人格は、多様な性質の最大公約数ということでもありません。単に、他人との共通点を探せばよいという話でもないのです。今日の所謂「多様性」をめぐる議論とも関係してくる大切な事柄なのですが、話が複雑になるので次に進みます。聖霊の「発出」についてです。

 

「産む」ではなく「発出」ですから、そこに対人関係のような要素がないことが第一点です。等しいものを発出するというのは、要するに「自己表現」するということでしょう。それも、完全な自己表現です。父と子が人格的関係なのに対して、父と(あるいは父と子と)聖霊の関係は表現的関係と言えます。聖霊は神(父)の一部ではありません。あるいは父の属性のひとつ(例えば、力や知恵など)でもなく「神」なのです。人の場合、その表現は当然その人の一部分しか表しませんが、神の場合は全てを表すからです。逆に言うと、人の持つ限定的な「表現」という行為自体も神から由来しているということです。

 

このように、私たちにとって馴染みのある人格的関係と自己表現という、人間らしさの原点とも言うべきものは、「三位一体的」な神から来ています。神が「ご自身に似せて人を造られた」ということの中心がここにあります。今日、人権(すなわち人格権)の大切な要素として「表現の自由」が語られるのも、そもそもそこに背景があるはずです。ところが、人はこのことを神から切り離して、人間の生得の「権利」として語るようになってしまいました。これも「罪の律法」の姿です。その結果、自己表現は罪の手段、あるいは罪自体の表現ともなってしまいました。人間関係も、同質の者同士を集め、異質な者を排除する「セクト」主義か、反対に何の秩序もない雑多なものの集合となってしまったのです。このような神から「自立した人」の世界が律法の世界です。

 

この律法の世界には、人権も表現もない抑圧的社会と、逆に人間が無制限の権利と表現を行使する「自称自由主義」の社会という両極端があり得ます。現実には、その両者の間を行き来していると言えるでしょう。三位一体的でない神(すなわちご自身に人格性と表現性を有しない神)は、創造者であっても、単に被造物を上から統治するだけの神です。その統治を人が横取りするのが抑圧的社会で、統治自体を放棄するのが「自称自由主義社会」です。ですから、三位一体の理論や理屈はともかく、人が人である根源が神に由来していることを知らなければなりません。ただし、このことを理論として納得するのでは十分ではありません。そもそも、人格的関係や表現性は、神を観察して学ぶというようなものではなく、三位一体的な神と私たちとの関係から成立するのです。私たちが単なる「被造物」であるだけでなく、キリストとの人格的関係に入ることが求められています。そして、そもそもそれが可能になるのは、聖霊がキリストを私たちに「啓示」してくださるからです。ここでの「啓示」がキリストご自身の表現であることは言うまでもありません。このようにして人は神を「知る」のです。