礼拝メッセージ要約

202455日 「三位一体その1」

 

ローマ書8章

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 

肉にある者は神を喜ばせることができません。 

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

前回までで、肉の志向と御霊の志向が対比されました。両者は決して相容れることがありません。7節、8節にある通りです。御霊の志向は、前章までに登場した「神の律法」という言葉で繰り返されています。「律法」は本来「道」を意味するへブル語ですから、決して固定的なものではなく、ダイナミックに生きているものです。神の律法とは神の道であり、神の道の現れが神の国なのです。

 

その神の道の現れについて9節から語られます。まずは、6章で取り上げた「キリストへのバプテスマ」の内実が改めて聖霊の観点から語られます。これまでも、「キリストにつながる」「キリストへバプテスマされる(浸される)」といった表現が、「キリストとの相互内在」を指していることを学びました。「私たちのうちにおられるキリスト」と「キリストのうちにある私たち」が同時に成立しているという意味です。9節では、この「相互内在」が御霊(聖霊)においても成立していることが語られます。「私たちのうちに住んでおられる御霊」と「御霊の中にいる私たち」という形です。この「キリスト」と「御霊」の言い換えが第一のポイントです。第二のポイントは「神の御霊」と「キリストの御霊」が言い換えられていることです。つまり「神」と「キリスト」が同列に語られている点です。まとめると、「神」と「キリスト」と「聖霊」が、なんらかの意味で同列に語られているのです。このような箇所は他にもありますが、これをどのように理解すべきか議論が起こりました。神について知りたいと思うなら当然でしょう。この議論は歴史的には、やがて「三位一体論」へと発展していきました。

 

この「三位一体」は、しばしばキリスト教の教派が「正当」であるかどうかの試金石として用いられます。それは、「三位一体論」の理解云々というより、その否定を通して、キリストの贖罪の価値を下げることが行われるからです。また、聖霊の働きも矮小化するということも行われます。結果として福音の内容が骨抜きになり可能性があるのです。ただし、私たちを救うのは「福音の理解」ではなく福音がもたらす神の力です。三位一体を理解したから救われるわけではありません。むしろ「主(イエス)の名を呼ぶ者は皆救われる」のであり、その告知が福音です。

 

とは言え、「三位一体論」という理論そのものはともかく、そのような議論の背後には多くの重要なテーマが隠されているのも事実です。ローマ書で登場する最も重要なテーマのひとつは、前述のとおり「相互内在」なので、この点について今後考えていきます。6章で、「つながる」というのは、AとBが接着しているというのではなく、AとBが相互内在していることだと学びました。8章で、神とキリスト、キリストと聖霊が同列に語られている(すなわち三位一体的に表現されている)ことも、同様に「相互内在」的に理解する必要があります。神とキリストを並列して中身が同じだというような話ではありません。お互いが相互内在しているという関係性が鍵となっているのです。このあたりの消息は、ヨハネ福音書に、「父と子の相互内在」についてイエス様ご自身の言葉として書かれています。いずれにしても、三位一体の「一体」という部分について熟慮する必要があります。

 

ただし、父、子、聖霊の相互内在というのは神ご自身の事柄です。啓示として示されることで、私たちがそれ自体を体験するものではありません。ですから、神の相互内在以前に、まず、人とキリストの相互内在、そして人と聖霊の相互内在という現実から出発しなければなりません。(ローマ書もそこが中心です)。この相互内在のない三位一体の議論は、絵に描いた餅になってしまいます。ただし、たとえ絵に描いた餅から出発するとしても、どのような「餅」なのかは知っておくことには意味があります。「三位一体論」は、それだけで大きなテーマなので、「相互内在」の前にできるだけ簡単に要点を確認します。

 

「三位一体」とは、神はひとりで、かつ「三位(父、子、聖霊)」があり、各位は神であるという意味です。よくある誤解として、三つの神(父、子、聖霊)が一致しているという考え(実質は3神論)や、それぞれが唯一神の現れ方の違いだとする様態論があります(旧約は父として、キリストの地上生活時は子として、教会時代は聖霊としてとうような考え)。前者は「三位」を分解し、後者は「三位」を解消してしまいますが、理屈はわかりやすいものです。このような、三位一体ではないものから入るほうが「三位一体」は何かを考えるよりも易しいでしょう。「三位一体ではない考え」は、端的に言えば聖書の記述にあわない考えです。特に問題なのは、人としてのキリストの側面が薄まってしまうことです。また反対に、キリストの神性を否定し(単に聖霊に満たされた一個人とし)、三位一体という言葉自体を否定する立場(養子論)もあります。結局、キリストとはだれなのか? 神なのか人なのか? それとも両方なのか? という、いわゆるキリスト論がそもそもの原点で、そこから三位一体論が発展していったわけです。

 

つまり、「三位一体」に対する姿勢がキリストへの姿勢と直結するために、「三位一体」が試金石として語られるのです。人類の代表として十字架で死なれた人の名を呼ぶ者が救われることが、すなわち「神は救い」だという福音の根本にかかわる問題です。なお念のために確認しておきますが、ここでの「子」とは、地上でのイエス様のみを指しているのではなく、天地創造以前の永遠の神の在り方を指しています。この「子なる神」が人となって来られたのがイエス様です。(父なる神が人になったのではありません)。

 

また、三者一体ではなく三位一体であることもポイントです。三位の位というのは分かりにくい訳です。通常「人格」のように訳される言葉(英語ではperson)なのですが、神に人格はおかしいので使えません。と言っても「神格」としてもニュアンスは違います。「位」としたのは、父、子、聖霊には順序があるからです(優劣ではありません)。父が子を「産みました」。産んだほうが父で産まれたほうが子です。(ここでの「産む」という言葉の意味はとりあえず問いません)。聖霊は父と子から「発出」しました(西方教会)。あるいは父から子を通して「発出」しました(東方教会)。以上も、哲学的な議論というより、まず聖書の様々な記述を「まとめると」こうなるという類の話です。しかし、そこから様々な形で哲学的な探究もおこなわれてきました。

 

いずれにしても、「誤解」は解く必要があるものの、「理解」が救いをもたらすわけではありません。「現実に」主の名の呼ぶ者が救われるのです。そして、それが可能なのは、「三位一体論」で示唆されているような、父、子、聖霊が現実に働いているからなのです。