礼拝メッセージ要約

2024428日 「御霊による思い」

 

ローマ書8章

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 

肉にある者は神を喜ばせることができません。 

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

前回、肉に従わず、御霊に従う者の中で律法の要求が全うされるという部分を読みました。これを受けて5節では、肉に従うことと御霊に従うこととの内実が説かれています。「肉的なことをもっぱら考える」ことと「御霊に属することをひたすら考える」ことが対比されています。まず、この「もっぱら考える」「ひたすら考える」と訳されている部分に注目します。この原語は一言に訳すことが難しい言葉です。心の中にあるものが外側に現れてくるというような内容で、単なる「考え」以上のものです。それで「ひたすら考え」というように、熱心に、集中して考えるというニュアンスで訳しているのですが、外側に現れるという方向性が重要です。また、「考え」と言っても、内臓で感じるような、直感的、本能的な面と、現実の認知という面を兼ねた言葉なので、「考え」以上の内容があります。そのため、ある人は「指向」と訳しています。ですから、「肉に従う」とは「肉への指向性」に基づく生き方、「御霊に従う」とは「御霊への指向性」に基づく生き方のことだと言えるでしょう。この「指向性」は単なる「傾向」以上に強烈なもので、この「指向」に逆らい続けることはできず、遅かれ早かれそれが具体的な現実となるものです。

 

この「指向」を具体的に理解するために、次の6節を読みます。まず「肉の指向は死です」とあります。これを、「肉の指向とは、すなわちその内実は死である」とも、「肉は死を指向する」とも理解することができます。ニュアンスは違いますが、結局同じ意味に行きつくと考えてよいでしょう。「肉」とは、生まれつきの性質ですから、「人は、その生まれつきの性質としては、死を指向している」という文になります。これはどういうことでしょうか? 人は、そもそも命を指向しているのではないでしょうか? 健康や長寿を願うのは万民共通のはずです。

それはそうですが、そのような意味での「いのち」志向は、そもそも生物としての人に本来備わっているものです。(もちろん、それ自体、神の創造の秩序であり良いものです)。そして、その「いのち」のために人は働いています。

 

ところが、人には、不思議なことに、このような「いのち」に反する側面があります。すなわち、破壊と死への衝動と呼ばれているもので、死はともかく、破壊を喜ぶ性質自体は、人の幼少期から見られます。幼児が積み木を崩して喜ぶ時、別に「創造のためには、まず破壊を」などと考えているわけではなく、単純に崩れる状態が面白いのでしょう。そして、そのような「破壊」も、他人に迷惑がかからない範囲で許容されます。人の成長とは、その「範囲」を学習することです。もちろん、学習したはずの大人も容易に「範囲」を逸脱しようとします。多くの人が「不倫」に惹かれるのも(実際には行動せずドラマだけで楽しむとしても)、そこに家庭という秩序を破壊する快感が伴っているからでしょう。「毒は魅惑する」のです。

 

このような「破壊への衝動」は、一定の制約を受ける範囲で様々な形をとります。格闘技のようなわかりやすい例もあれば、開発の名のもとに行われる環境破壊のような微妙なケースもあります。そして、「制約」が最小化されるのが戦争であるのは言うまでもないでしょう。人間はなぜ戦争するのかとよく問われますが、それは合理的な政治的、経済的、宗教的理由に見せかけた破壊への衝動が発動するからです。(ここで、政治的、経済的、宗教的云々というのは、すなわち律法のことで、この律法を通して罪が発動するということです)。もちろん、人類は古来このような「破壊」の強さを知っていて、それを神格化さえしてきました。(ヒンズー教のシヴァ神などが代表です)。

 

この「破壊」志向が厄介なのは、それが一見反対に見える「愛」と結びつくからです。(この愛はアガぺではなくエロスです)。「愛と死」はしばしばセットで登場し、多くの神話、ドラマ、絵画、音楽のテーマとなっています。アガぺの愛ではなくエロスの愛であっても、愛には「相手への没入によって自己を忘却する」という側面があります。「自己喪失」の快感が伴うのです。これは、様々な依存症にも共通しますし、集団ヒステリーにも見られるものです。それが、芸術やスポーツだけでなく宗教にも見られるのは当然のことでしょう。また、そのような自己喪失を「強制」するものもたくさんあります。ブラック企業から軍隊まで枚挙にいとまがありません。そして、そのような強制を可能にするために、自己犠牲を美化することになります。大義のために命を捨てることを美化し、人々を死に追いやる支配者たちの暴挙はつきることがありません。

 

このようにして、破壊の志向は様々な形で現れます。繰り返しますが、この「美化」の過程で用いられるのは、それ自体では良い(あるいは良い可能性がある)ものです。すなわち、正しい意味での自己犠牲(ヨハネ福音書)にある「友のためにいのちを捨てること」は、アガぺの愛であり神からのものですが、地上でのエロスの愛と結びついた死は、自己喪失と破壊であり、罪の発動の結果である死なのです。この違いは微妙でありながら決定的です。エロスもアガぺも「死」と関連しているのですが、キリストなしの愛(エロス)は破壊と自己喪失に帰結し、十字架の愛(アガぺ)は新しい創造と自己の確立へと導くのです。

 

この違いは根深いものですが、ひとつの見分けかたは、死の美化があるかないかにあります。エロスは死を美化し、アガぺはそれをしません。その試金石が十字架の理解です。キリストの十字架をエロス的に捉えるというのは、十字架(すなわちキリストの死)を美化するということです。それを、英雄、殉教者の死として美化し、それに伴い、そのように解釈されたキリストを掲げる教会、団体が、彼らへの献身(自己犠牲)を要求するという形をとります。すなわち、キリスト教のカルト化です。それに対して、福音の告げる十字架は、呪いとなったキリストを説きます。それは徹頭徹尾、神によって罪が処罰された場であって、美化の余地はありません。そこにあるのは、私たちにとって究極の恐ろしい事態であり、まさにそれゆえに、今や神の怒りは「過ぎ越し」たのです。

 

十字架のキリストも、ある意味では自己犠牲ですが、そこに自己喪失の快感などあるはずもなく、あるのは「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びです。私たちが知るべきなのは、その絶望の場所にこそ神の愛が現れたということです。「実に神はご自身の御子をお与えになるほどに世を愛された」のです。この愛が永遠のいのちを与えます。これを現実化するのが聖霊の働きです。「御霊の志向」は「いのちと平安(シャロームすなわち神に祝福された繁栄)」なのです。