礼拝メッセージ要約

2024421日 「律法の要求」

 

ローマ書8章

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 

肉にある者は神を喜ばせることができません。 

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

前回、罪と死の律法(支配)が、キリストの十字架において断罪されたことを学びました。この十字架の目的が4節に書かれています。まず、この節を読んでいきます。「私たちの中に、律法の要求が全うされるため」とあります。律法の要求とありますが、直訳すると「律法の義」です。この「義」には神の宣告というニュアンスがあるので「要求」と訳したのでしょう。「信仰による義」を説いてきたパウロが、ここで急に「律法の義」を持ち出すのには違和感があるかもしれません。もちろん、マタイ福音書に「律法を廃棄するためではなく、完成するためにキリストが来られた」とありますから、全く異質の話ということではありません。しかし、以前にも学んだように、この「要求の全う」や「完成」という言葉から、もとの「律法主義」に戻ってしまう危険は多々ありますから注意が必要です。マタイ福音書の「完成」は、実質的に「卒業」を意味していることも以前学んだ通りです。この問題を、ローマ書では別の観点から取り上げているわけです。

 

まず、「律法の要求」という観点から考えます。そもそも「律法」は何を要求しているのでしょうか? 律法の要求は多岐にわたるので、「要するに」何が求められているのかが問われてきました。イエス様は「神を愛し、隣人を愛す」ことが「律法」の要点だとおっしゃいましたが、これはユダヤ教徒にとって広く受け入れられている解釈です。また、あるラビは、この要点をさらに凝縮して、「神がご自身に似せて人を造られた」ことが律法のエッセンスだと言いました。このエッセンスから必然的に「神を愛す」ことと「隣人を愛す」ことが導かれるからです。この「律法の要点」については、だれも異論はないでしょう。そして、パウロは、この要点が「私たちの中で」実現されると言っているのです。

 

しかし、ユダヤ教律法主義者は、律法に従う彼らこそ、律法の要求を満たしているのであって、キリストなど関係ないと言います。それに対して、パウロは7章までで、「律法主義」は律法の要求を満たさないばかりか、むしろ罪を助長していると説明してきました。罪は律法を利用して、ますます邪悪なものとなるのです。それが「肉にある者」の現実です。律法は「肉」を通すと、義(律法の要求)を満たすことができません。それは「律法」の限界ですが、同時に「肉」そのものが問題なのです。繰り返しになりますが、この「肉」というのは肉体や世俗のことではなく、生まれたときからの「的外れ」な状態のことです。この「的外れ」が何を意味しているのかが肝心で、これまでも繰り返し触れてきました。重要なのでもう一度確認します。

 

原初の「的外れ」とは「善悪の知識の木の実を食べたこと」、すなわち「律法」を勝手に「内在化」してしまったことです。神の律法に反して、自分自身の中に、あたかも「神の律法」があるかのような状態にしてしまったのです。要するに、自分を神に反して「神と等しい」存在としたのです。その「罪人」に対して、神は徹底的に「外部から」律法(モーセ律法)を与えました。「汝なすべし」という命令であり、不服従には「死」が待っていました。ただし、「死」そのものは「律法違反」以前からアダムとともにあったのです。ですから、死は律法によってもたらされたのではなく、律法が根源的な「死」を指し示しているのです。要するに、モーセ律法とは、自分を神格化する人間を裁き、神の律法は人間の「外部」にあることを悟らせるために与えられたのです。人間は「脱神格化」しなければならないということです。

 

それでは、ユダヤの律法主義者たちは「脱神格化」できたのでしょうか? いいえ、できませんでした。彼らは「律法」を文字化(情報化)によって「外部のもの」としたために、律法を「利用できる」ようになったのです。その結果、彼らは律法を「用いて」、人々を裁き、共同体を支配し、自分自身を律法の守護者と見做して、自分を義としてしまいました。それが「律法の義」をパウロが呼んでいるものです。結局、彼らも自分を「神の代弁者」という肩書で、実質的に神に等しいものとしまったのです。「罪」は、律法のある者も無い者も支配しますが、律法のある者は、自分が神に従っていると信じ込んでいる分、余計に邪悪な状態に陥ってしまうということです。

 

この「肉」の状態からの解放(救い)は、人間が勝手に内在化した律法でもなく、さりとて、外部の律法の強化でもなく、一旦は完全に律法の支配から解放された上で、改めて「正しい道で」律法が内在化される他ありません。これが預言者たちによって暗示されていた「新約」です。この「正しい律法の内在化」の実体が、「聖霊」(御霊)が与えられることなのです。パウロは、キリストにつながった者には「聖霊が与えられている」前提で語っています。ただし、与えられているだけで、聖霊に導かれていない「幼子」の存在についても触れています。ですから、当然「御霊に従って歩む」ことが求められていて、その場合には、真の意味で「内在化された」律法が具体的に現れてくるのです。

 

念のために繰り返しますが、ここで「肉」「御霊」とあるのは、「世俗」「宗教」のことではありません。宗教も律法主義である限り「肉」ですし、それはしばしば世俗の肉よりも悪質になるのです。もちろん、何の律法もない無秩序状態や、勝手に神がかりになる宗教も「肉」であるのは言うまでもありません。「肉」とは、第一に「生まれつき内在化している律法に支配されている」状態と、第二に「外在化された律法に支配されている」状態のことなのです。この状態を通して「罪」は働き死をもたらします。私たちは、この「肉」から解放されなければなりません。それが「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」ということです。

 

ただし、この表現ですら誤解される危険があります。「従って」という部分です。「御霊に従う」というのが実際どういうことなのかが問題です。二つの危険があります。第一は「御霊」をキリスト教と同一視して、キリスト教版律法主義に陥る危険です。第二は、自分や他人の考えやひらめきを「御霊の導き」と同一視して、無律法主義に走ってしまう危険です。結果は正反対ですが、どちらも福音とは相いれません。「御霊に従う歩み」は、直訳すると「御霊の下での歩み」「御霊による歩み」です。要するに「聖霊の支配」のもとでの歩みですが、それを特定の形やパターンに限定することはできません。確かに、聖霊の支配下で「キリスト教」の様々な分野が生まれてきましたし、その場その場での「聖霊の導き」によって、多くの人々が御心にかなう歩みをしてきました。しかし、前者が律法主義に陥り、後者が無律法主義に陥るなら、結局それは御霊による歩みではありません。御霊は風のように吹き、人々に自由と解放を与えます。そして、その結果、「御霊の実」を結んでいくのです。その実は「愛」です。そして、愛が「律法の要求」であることは言うまでもありません。