礼拝メッセージ要約

2024414日 「罪の処罰」

 

ローマ書8章

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 

肉にある者は神を喜ばせることができません。 

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

8章冒頭で、「いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から私たちを解放した」という、福音の根本が示されました。そこでパウロは改めて、この福音が現実となった根拠を示します。いわゆる十字架のメッセージです。(十字架抜きの聖霊は真の聖霊ではないので、私たちはいつでも十字架に帰らなければなりません)。3節で十字架は何を成し遂げたかが語られます。3節は4節に続く長くて複雑な文章ですので注意深く読む必要があります。ここでの主語は神で、動詞は「処罰された」です。要するに「神は罪を処罰された」という文で、その他の言葉は、この文を修飾しています。

 

まず「肉によって無力になったため、律法にはできなくなったこと」とあります。(翻訳では、できなくなったことを神は「してくださった」と訳していますが、「してくださった」というのは補足で、原文にはありません)。直訳は難しいですが、「肉を通して弱く病的状態であることにおける律法の無力さ」というような感じでしょうか。これは、7章までにパウロが徹底的に論じてきたことです。繰り返しになりますが、この部分に関するふたつの誤解を確認します。どちらも、律法を「合格点を提示する神の要求」のように、そして「肉の弱さ」を、合格点に達しない私たちの実力不足のように捉えます。その上で、第一の誤解の場合は、神はあわれみのゆえに、合格点を下げてくださったと考えます。律法の実行は難しすぎるので「信じるだけでよい」という簡単な道を用意してくださったというのです。それに対して第二の誤解の場合、合格点は変わらず、私たちの実力を上げてくださったと考えます。すなわち、聖霊による超人的な力を得て、神の要求に応えることができるというのです。

 

どちらも、よく聞かされる話で、それなりの説得力があります。前者はいわゆる福音派に多く、後者は聖霊派に多く見られます。間違いではないかもしれませんが、ローマ書の論旨からはやや外れていると言わざるを得ません。パウロが述べているのは、罪は律法を通して働くということです。罪とは、単に律法という試験の不合格ではないのです。律法が無ければ私たちは生きていけませんが、律法がある限り罪は働きます。このジレンマこそが問題の根幹です。このジレンマがあるからこそ、律法は無力なのです。この無力さは、「肉」の病的状態の場所に現れています。この病的状態こそ、罪が肉に住み着いている証拠です。ここでの「罪」は、諸違反(複数形)ではなく罪そのもの(単数形)であり、死を通して人類を支配しているものに他なりません。そして、この「罪」をどうするかが根本的な課題なのです。

 

この「罪」に対して律法は無力です。罪が律法を通して働いているからです。そして生まれつきの人(肉)もまた無力です。律法は肉を通して働いているからです。とすれば、この罪をどうにかできるのは神しかありません。そして、神はその「罪」を処罰されたと福音は告げるのです。そこで、この「罪を処罰された」とは何なのかが根本テーマとなります。一般的なイメージは「神は、罪を犯した人を処罰する」というものです。(神だけでなく、この世の裁判でも同じでしょう)。しかしパウロは、罪人ではなく「罪」そのもののことを語っています。ほとんど罪を擬人化しており、実質「サタン」「悪魔」と呼んでも同じことです。これは明らかに創世記冒頭の出来事とつながっています。エデンの園で罪を犯したアダムとエバに対して神は有罪を宣告されましたが、それだけではなく人を罪に誘った蛇(サタン)に対して決定的な裁きを宣告されました。すなわち、来るべきエバの子孫に対して蛇の子孫はかかとにかみつくが、逆に頭を踏み砕かれるというものです。パウロのいう「罪」が、この蛇を指しているのは明白でしょう。福音とは、この蛇が処罰されたことの知らせなのです。

 

その処罰は十字架を頂点とするキリストの歩みにおいてなされました。まず神はご自身の御子を遣わしたとあります。この「派遣」は聖書のバックに常に流れているテーマで、パウロ自身もキリストの使者として派遣されたと言っています。神は、ナザレのイエスという人に、ある時点で使命を与えたのではなく、初めから(すなわち地上に誕生する前から)おられた存在を派遣されたのです。キリストが神の御子であるというのは、そういう意味です。ただし、それが「公けに示された」のは復活によります(1章参照)。この神の御子は「罪のために、罪深い肉と同じような形で」遣わされました。「罪のために」という部分は、派遣の目的と考えられるので、罪の問題を処理するための派遣と言えるでしょう。キリストは「罪の支配下にある肉、すなわち、現実の人間の有様で派遣されました。ここの部分を良く理解する必要があります。それは、キリストは罪を犯さなかったということの意味です。

 

「キリストは神の子なのだから、原理的に罪は犯せなかった」という考えと、「罪の可能性はあったが、御心に忠実であったので、罪は犯さなかった」という考えがあります。聖書の記述は、どちらかと言えば後者でしょう。しかし、ローマ書の論点はそこではなく、キリストの肉(罪が律法を通して働いている現場)において、罪が処罰されたという所です。律法とも罪とも無縁なキリストが、罪という外的と戦って滅ぼしたというような、いわゆるスーパーマン的なイメージとは異なるということです。キリストが私たちの罪を背負ったという事実も、何か「外側」にあった罪を、キリストが十字架で背負ったと考えるなら十分ではありません。キリストは人間である以上、律法を通して働く罪が支配する世界に生きていました。そして、その分かりやすい例が、パリサイ派や律法学者による攻撃です。また、荒野での断食のような、悪魔による直接的な誘惑もありました。さらには、神に仕えるために出家してついて来た弟子たちさえ罪の働きから自由ではなくキリストを裏切ったのです。福音書は、このように律法を通して働く罪の具体例に満ちていて、その極致が十字架です。

 

十字架において、罪と死の律法はついにキリストを突き通し、キリストを殺しました。一見サタンがキリストを殺したように見えますが、厳密に言うとそうではありません。罪と死の律法の下にキリストは死にましたが、実はキリストは無罪であったという逆説があるのです。神の呪いとなられたキリストは「同時に」無罪であったというのは完全な逆説であり、これを図式的に表現することはできません。この逆説のゆえに、キリストを殺したはずのサタンは、逆に「頭をくだかれた」(処罰された)のです。「無法者であるサタンが善人であるイエス様を殺したけれども、神がイエス様を生き返らせた」というような通俗的なイメージは論点がずれています。これは律法の問題です。罪と死の律法(支配)が、その極致である十字架において断罪されたのです。ですから、十字架はたまたま起きた出来事ではなく、罪と死の律法の「必然的な」結果です。そして、その処罰は完了しキリストは復活しました。ですから「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる」のです。