礼拝メッセージ要約
2024年4月14日 「御霊の律法」
ローマ書8章
1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
いよいよ8章に入ります。ある人は、新約聖書全体を指輪に例え、ローマ書をそのダイヤモンド、そして8章をダイヤのきらめきと称しました。上手な例えで、8章の素晴らしさを語っていますが、同時に、それはダイヤ、そして指輪の一部であることも忘れずに読むことが大切です。
1節で「こういうわけで」とあるとおり、7章、そしてこれまでの論議をふまえて8章が始まります。まず重要な宣言が行われます。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることはない」というものです。ここからの議論は5章の前半を展開するものです。5章に「キリストの血によって義とされた私たちが、神の怒りから救われるのはなおさらのことです」とあります。5章で学んだように、これは、ユダヤの歴史観・世界観を下敷きにした表現で、新世界の到来時に行われる「審判」で無罪とされ、新世界に入ることができるという、いわば「黙示思想的」な言葉です。そして、ユダヤ人(の律法主義者)は、そのような意味で義とされる条件が「律法順守」であると信じていました。パウロのここまでの議論は、そのような律法主義ではなく、「キリスト信仰」によって義とされるというものです。そして、キリスト信仰の基盤はキリストの十字架(血)ですから、十字架信仰を言い換えてもよいものです。
しかし、これだけでは十分ではありません。「モーセ律法の犠牲が不十分なのでキリストの犠牲がなされ、その結果、人々が新世界に入ることができる」という、福音宣教初期のメッセージは、もちろんパウロも受けついではいますが、それは「福音」の半分だけなのです。ローマ書で語られる福音は、そのような「ユダヤ的歴史観」の前提抜きで、すべての人にあてはまる「普遍的な」メッセージです。そのキーワードが「キリストにある」者です。「キリストにある(原語ではエン・クリスト、英語ではIn Jesus)」は、ローマ書だけでなく、パウロの他の書にも登場する大事な言葉で、逆パターンの「キリストの内在」とセットで、「キリストとの相互内在」という根本事実を指しています。この「相互内在」については、6章で「キリストにつながる」という表現で語られていました。二つの物が接着されているという「つながり」というよりも、相互に内在しているという意味での「不可分」であることがポイントです。
この「キリストにある」という事態は、理屈で説明することが難しいものです。8章のここでも、まずは単純に事実として宣言されています。そして、その宣言に続いて、その根拠が述べられています。「いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したから」というものです。この解放という動詞は、すでに成立した(アオリスト)事実を指しています。すなわち、将来の(最後の審判の)話ではなく、今現在のことです。この「解放」という現実(リアル)が福音の実質的な内容であり、単なる将来への約束だけではありません。その意味で、黙示思想的な枠組みを超えた、普遍的な現実についてのメッセージであることがポイントです。当然、私たち異邦人にとっても中心的なメッセージです。ですから単純に、「福音とは、復活者キリストが、聖霊によって、私たちを罪と死から解放してくださることです」と言うことも可能です。ただ、それは物事をやや単純化した表現であることも忘れてはなりません。パウロのメッセージは、単に罪と死からの解放ではなく、罪と死の原理(原語は律法)からの解放だからです。
律法からの解放こそ、7章で強調されてきたことです。「律法」がユダヤ教の事だけを指しているなら、日本での宣教で律法について述べるのは余計なことかもしれません。しかし、繰り返しになりますが、律法はあらゆる社会の根底なのですから、私たちにも当てはまります。律法問題を除いたら、福音が骨抜きになってしまうのです。ですから、6章を引き継ぐかたちで、2節を読む必要があります。7章で「神の律法」と「罪(と死)の律法」が対比されていました。この「神の律法」の実質が、ここでは「いのちの御霊の原理(律法)」と表現されています。神の律法は、神の支配と同義ですから、いのちの御霊の律法も、いのちの御霊の支配と言えるでしょう。罪の律法も同様に罪の支配を指します。いのちと死、御霊と罪という単純な対比ではありません。通常の理解は、「律法によって成立している社会の中で、善と悪が判断され、善は推奨され、悪は裁かれる」というものです。しかし、7章で学んだように、この社会の基準となる律法自体が罪と一体化しているために、律法の支配下にある人は罪の支配から逃れることができないのです。
ですから、私たちは、この「罪と一体化した律法」自体から解放されなければなりません。律法からの解放なしに罪から解放される道はないのです。この解放が律法自身によって出来ないのは当然のことです。癌化した免疫細胞は癌を滅ぼせないようなものです。必要なのは、罪の律法とは異なり、それよりも上位にある律法です。それが「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の律法」なのです。罪の律法(通常の律法)は文字や文化の形式という「外形的な」情報によって規定されています。それに対して「御霊の律法」は、情報ではなく実質(なまの現実)として働きます。「文字は殺し、霊は生かす」のです。それなら、文字などいらないではないかと言えば、決してそうではありません。「文字は殺す」とは、厳密に言えば、文字を通して罪は極悪になるのですが、文字がなくても(すなわち律法以前にも)罪はありました。もっと厳密に言うと、体系的な律法はなくても、人間はアダムとエバ以来、根本的に「文字(すなわち言語)」を操って存在しているのです。文字(言語)がなければ、単に人間以下の存在になってしまいます。文字こそ人間が人間たる所以であり、その根本に罪が侵食していることが悲劇なのです。
これに対抗し上回るのが御霊の律法、聖霊の支配です。聖霊は言語ではありません。ただし、決して「言語未満」でもありません。単なる「思い付き」や「感情、感覚」ではないのです。むしろ言語を包み、かつそれを超えている神ご自身の働きです。それは御霊の「律法」ですから、個人を始め社会(共同体)の成立させる力です。その象徴が、あのペンテコステの出来事です。その時、聖霊が降るとキリストの弟子たちは異言(本人が知らない言語)を話し出しました。いわば「言語を超えた言語」の象徴です。それは、周囲の人にとっては、酔っ払いのたわごと(すなわち言語未満のもの)でした。しかしそれは聖霊の働きの現れであって、その証拠は、そのペンテコステによって「教会(すなわちキリストの共同体)」が生まれたことです。このような聖霊の働きについては、コリント書に、そのすばらしさと同時に誤った理解からくる混乱について書かれています。この聖霊の働きは、まさにキリストから来ます。この聖霊とキリストの結びつきについて、さらに学んでいきます。