礼拝メッセージ要約

2024331日 「ローマ書のイースター」

 

ローマ書7章

22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 

23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 

24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 

25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 

今年もイースター(復活祭)を迎えました。キリストの復活という歴史的出来事を記念し祝う行事ということで、各国で盛大に祝われています。その際には、福音書の記事をなぞる形で、キリストの受難と復活の出来事が語られます。十字架と復活が福音の中心ですから当然のことでしょう。ただし、不思議なことにパウロは、福音書にあるような様々な出来事を時系列で語ることはしません。もちろん、それらの出来事について伝聞で知っていたでしょう。しかし、それらの細かい顛末よりも、十字架の死と復活の意味そのものにパウロのメッセージは集中しています。今私たちが読み続けているローマ書でも同様です。今年のイースターでは、受難と復活にまつわる歴史的出来事から一旦離れて、ローマ書のメッセージからキリストの復活について考えていきます。

 

福音は一つの問いから始まります。それは「ナザレのイエスなる人物は何者なのか」という問いです。預言者、王、メシヤ、教師、あるいは偽預言者、反逆者、さらには一時の人気者、実に様々な答えが返ってきます。その中で福音は「イエスはキリスト(メシヤ)」であると告げます。ただ、そのメシヤにも様々な種類がありますから、いったいどのようなメシヤなのかという問いが続くわけです。この問いに対しても様々な答えが提唱されてきましたが、どのような答えも、彼のある側面を描写するだけで、彼の存在自体は言葉による説明を超越しています。これは何もイエス様に限った話ではなく、どんな人であっても、その存在自体は一連の説明に還元できないものです。受難と復活にまつわる出来事の記録も、もちろんイエス様の存在について色々な角度から光を当てています。ですから、それらは記録され今日まで伝えられているのですし、そこから私たちも多くを学ぶことができます。ただし、それは彼の存在についての説明であって、存在そのものではありません。

 

私たちを救うのはキリストについての説明ではなくキリストご自身です。キリストとのつながりがあって初めて説明に意味がでるのです。パウロにとってもキリストとの出会い(遭遇)がまずありました。そして、その遭遇と関連する事柄から始まり、次第に理解を拡げていきました。その過程で当然、歴史的な出来事の意義についても理解していったのです。その「遭遇の理解」と「出来事の理解」をつなぐのは「律法」です。キリストの処刑を命じたのはローマ側ですが、そこに追い込んだのはユダヤ教の権威です。ユダヤ教の権威とは、すなわち彼らの理解する「律法の権威」です。イエス様は律法に逆らう者と見做されて死に追いやられました。メシヤは律法の守護者であり、律法に逆らう者は偽メシヤであるというのが彼らの大前提です。従って、イエス様がキリスト(メシヤ)なのかどうかは、イエス様と律法がどう関係するかによって決まるのです。

 

その観点から受難と復活の出来事を振り返ります。イエス様の受難は、安息日に人を癒したり、食前の手洗いの儀式をしないなど、律法に付随する規定を無視したことから始まりました。ただし、それは律法自体を軽視したからではなく、律法の文字ではなく、律法の原点である神の御心を実現するためでした。この神の御心とは神の国(神の支配)です。イエス様が語り実現している神の国は、本来、神の律法と呼んでもよいものです。そもそも律法と訳されている言葉「トーラー」は法律ではなく「道」という意味です。神の国も神の道も同じことです。しかし、地上に存在する「律法」が神の「道」そのものなのかという重大な疑問があります。ユダヤ教の権威はそうだと言い、イエス様もパウロの違うと言うのです。

 

この違いは単なる「見解の相違」ではありません。「神の道(律法)」を体現している者(イエス様)に敵対しているのは「罪の律法」であるというのがローマ7章の結論です。単に「神」対「罪」の対立なのではなく、神の律法と罪の律法であることがポイントなのです。イエス様に対する攻撃と、イエス様の反応からそれを読み取ることができます。表面的には、イエス様が律法の慣習を無視したから攻撃されたように見えますが、それ以前に、彼が「罪人の友」であったことが嫌悪の対象となったのです。罪人とはもちろん律法違反の人のことです。ですから罪人の友であること自体が律法違反とみなされたのです。様々な出来事は、罪の律法が目に見える形で現れたものです。宗教家の偽善、民衆のご都合主義、政治家の優柔不断など、現象自体はだれでもわかりますが、それが「罪の律法」にかかわるところが問題なのです。

 

「罪の律法」とは「的外れの世界観・価値観が力を持っている状態」のことです。それは人々の内面を支配すると同時に社会を支配しています。イエス様の場合は、神の律法が内面を支配していますが、それに対して外から罪の律法が戦いを挑んでいました。ですから、私たちが福音書の記事を、ローマ書の具体例として読むことができるのです。ローマ書7章のこの箇所は、ひとりの人の内部を描写していますが、それがイエス様と敵対勢力とに分かれて実現したということです。そして、その帰結が十字架です。

 

イエス様の場合、罪の律法が神の律法であるイエス様を十字架につけたのですが、それが罪の律法の勝利を意味しないというが福音です。イエス様は、罪の律法に支配されている人類の代表として死なれたのですが、その死によって死の律法の役目は終わり、もはやその効力は及ばなくなりました。それがローマ書7章の主題です。ここでの肝は、イエス様が人類の代表なのか、それとも単なる一個人なのかということです。一個人ならば、イエス様が罪人であったか、逆に、罪の律法の犠牲者であったかどちらかのことに過ぎません。そうならば、私たちには何の関係もないことになります。しかし、代表者であるならば、私たちはキリストの十字架に与ることが可能となります。それが福音であり、ローマ書でパウロが詳細にいるところです。そして、個人か代表かの分かれ道が復活なのです。

 

キリストは復活によって、人類の代表であることを示されました。というのは、復活が新時代(アイオーン)の到来を意味しているからです。新時代(神の国)は神の律法(神についての人の律法ではない)の世界であり、復活者とは神の国の民です。キリストはその初穂なのです。ただし、それだけではキリストが代表であることは分かりません。仮に新時代の代表であっても、旧時代(罪人)の代表であるかどうかは別です。それを決めるのが、実は「神の律法」の内容なのです。神の律法とは神の御心です。結局、神の御心を知っているかどうかで決まります。イエス様は「父」である神の御心をご自身の心とされていました。その心とは絶対的な恩恵であり、アガぺ(愛)です。ですから、ヨハネも言うように、「神は愛」であり、愛によらなければ神はわかりません。しかも、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださったのです。そして、それは、イエス様が罪人を愛し救ってこられたという「事実」によって証明されました。決して単なる理論ではありません。

 

パウロ自身も、罪人のかしらである彼自身がイエス様に受け入れられたという事実を通して、神の愛と恵みを体験しました。神の愛と恵みを土台として十字架に接する時に、初めてキリストは、ご自身の罪ではなく私たちの罪のために死なれたことが明らかになります。この十字架の事実とあわせて、キリストの復活に触れる時に、「キリストは私たちの罪のために死なれ、私たちを神の子どもとするために復活された」ことを知り感謝するのです。