礼拝メッセージ要約

2024324日 「律法の三つの側面」

 

ローマ書7章

15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 

16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。 

17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。 

18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 

19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。 

20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 

21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。 

22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 

23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 

24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 

25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 

パウロの語る律法には複数の側面があります。21節から、その複雑な内容について述べられています。この話の前提として、パウロの語る自分自身の状況が描写されています。「律法が正しいと認め、憎むべきことを行っている」状況を、単に矛盾した行動ですましません。むしろ、憎むべきことを行っているのは「私ではなく私の内に住む罪」であると言っています。一見、罪を犯しても「自分自身」の責任ではなく、「たまたま自分に憑りついている罪」のせいにしているように思えます。現に、悪に「憑りつかれている」人は、いわば悪霊や悪魔に憑りつかれているのだとみなし、それを追い出すことが解決であるという考えがあります。

 

この「罪」=「悪霊の仕業」というのは広く宗教界に見られるものですし、福音書など聖書にも「悪霊追い出し」の例はたくさんあります。ただし、聖書に登場する「悪霊憑き」は悪人というよりも、異常な言動をする人たちです。ある種の精神疾患に似ていたり、オカルト的な力を発揮しているようなケースです。もちろん彼らも「的外れ」であるという意味では罪人ですが、問題となる罪人は、政治的、宗教的権威を持った人、いわゆる「善人、義人」です。彼らこそ、「見えない悪霊」の支配下にあるのです。有名なクリスチャン著述家であるC.S.ルイスは「悪魔の手紙」という本の中で、悪魔の世界を強固で冷徹な官僚組織のイメージで描写しましたが、非常にすぐれた発想だと言えるでしょう。

 

では、パウロは何を語っているのでしょう? 彼が「罪を行っているのは私ではなく」という時の「私」は、キリストと結ばれた「新しい私」です。その「私ではなく、私のうちに住みついている罪」も、私と無関係の何かではなく、やはり「私」ではあるのですが、それはキリスト抜きの、いわば古い私なのです。18節では、私の肉という表現が使われています。この「肉」を罪が支配しているのです。以上の事を前提として、律法の三つの側面について読んでいきましょう。

まず22節です。「内なる人としては神の律法を喜んでいる」とあります。この「内なる人」はキリストと結びついた「新しい人」のことでしょう。この「新しい人」が「神の律法」を喜んでいます。ここでの「神の律法」が何なのかは、ひとまず保留します。(単純にモーセ律法と同一視しないという意味です)。次に23節です。まず、からだの中に異なった律法があると言います。当然、神の律法と異なるもので、実質的に罪の律法のことを指します。以上が二つの律法です。23節ではさらに、「私の心の律法」が登場します。ここでの「心」は罪の律法が住む「からだ」と対比する言葉です。やや込み入っていますが、霊と肉の対比と同じことを言っています。この心に律法において私は神の律法を喜んでいるというのが、パウロの言う「私」の実態です。

 

以上でわかるように、ここでの「律法」はもはや法律体系でも文化的な慣習でもなく、21節の翻訳にあるように「支配的な原理」とでも呼ぶべきでしょう。ただ「原理」と言ってしまうと、何か抽象的な法則のようなイメージになってしまいます。しかし、単なる法則ではなく律法と呼ぶのは、やはりそれが具体的な世界観・価値観を成立させている根源的なものだからです。その意味で、神の律法は、神が成立させている世界の根源ですから、結局「神の国」の根源のことになります。ですから、それを単純に「モーセ律法」と同一視することはできません。この「神の律法」はあくまでも神に属するものです。しかし、この神の支配に招かれ、この神の国を求め志向している存在があります。それが、私の心の律法です。イエス様は「神の国と神の義をまず求めよ」と言われましたが、この「求め」を起こさせているのが心の律法です。

 

この心の律法は神の律法と同一なのでしょうか? YESでもNOでもあります。「神の支配」の内容という意味では同一でしょう。神の求めていることと「心」の求めているものが一致しているのですから当然です。一致しているということが、すなわち神の国(支配)が実現しているということだからです。この事態については、「内なるキリスト」という表現で、他の箇所で語られており、この後8章で深められることになります。7章では、律法と支配という観点から同じことについて説明されています。神の律法すなわち神の国(支配)という福音の原点です。

 

ただし、この神の支配は「支配」という言葉にあるように、支配する側(神)と支配される側(人)という根本的な区別があります。内なるキリストで言えば、私のうちにキリストがおられるからといって、私がキリストになるわけではないということです。ですから、私の心の律法は、それ自体で成立はできず、あくまでも神の律法の「写し」であると言えるでしょう。この根本的な区別が失われたり、逆転したりすることが「罪」そのものの本質なのです。

 

そこに「罪の律法」が登場します。これが「心の律法」に対して戦いを挑み、私(古い私)を支配していると言うのです。罪の律法が心の律法の反対であることは明らかです。それは内容、方向性が逆でありながら、その支配力は非常に強力で無視できないものです。しかしこれを単なる悪への衝動に矮小化してはなりません。むしろ、神の律法に対応している心の律法という在り方そのものを損なおうとしている力なのです。この力は二つの働きをします。一つは単純に神が求めるものを阻止したり、神が嫌うものを好むようにするもの、いわゆる悪い心、悪い衝動の類で、比較的わかりやすいものです。もう一つはローマ書のテーマで、一見「良い」ものです。すなわち、心の律法が神の律法と等しいことから、自分を神と見做そうとする根本的な自己崇拝の罪です。自分の内に律法を持つことから、自分自身を律法としてしまう、「律法主義」の罪であり、最も深く恐ろしい「霊的な罪」に他なりません。これこそパウロが身をもって体験してきたことですが、キリストと出会った彼はそこから解放されました。ただし、それは「律法主義」自体がこの世から消滅したからではありません。キリスト者であっても神の恵みから自らを退却させてしまえば、その途端に陥ってしまう危険があります。その「本当にみじめな」存在から救ってくださるのがキリストなのです。