礼拝メッセージ要約

2024317日 「改宗と回心」

 

ローマ書7章

15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。 

16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。 

17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。 

18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 

19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。 

20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 

21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。 

22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 

23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 

24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 

25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

 

15節からは現在形で「私は〜」と語っています。この部分をどう解釈するかについては、古来様々な議論がされてきました。現在形なのだから、素直にパウロの現状を表現しているのだろう、いや、この「みじめな」姿はキリストと結ばれる前の(いわゆるクリスチャンになる前の)状態を思い出しているのだろう、など。前者であれば、パウロに限らずクリスチャン一般の表現ですし、後者であればクリスチャンでない人一般の状態となります。

 

パウロのケースで見ると、彼はキリストと出会う前に、このような葛藤を感じていたかは疑問です。彼は確信を持って律法追求の道を進んでいたようです。彼の信じる善をひたすら追求していたのに、キリストと出会ってそれが完全に間違っていたことを悟ったのでした。だからこそ、このローマ書でも「律法とは別の義」を説いているのです。その意味では、パウロに限っては、この箇所を現状として読む方が良いでしょう。

 

なお、当時のユダヤでも(あるいは詩篇などでも)ある程度共有されていた理解も確認しておきましょう。その理解とは、人の中には善を求める心と悪への衝動があり、それがせめぎ合っているというものです。これは、何もユダヤに限らず、かなり一般的な人間理解でしょう。この場合の「心」は通常「理性」を意味します。(この「理性」はパウロも23節以下で「心」と訳されている個所で使っています)。感情や衝動を理性でコントロールすべきなのに、それが難しいというのはその通りです。ただ、そのことだけならローマ書を開くまでもないでしょう。ですからパウロの言葉に注意深く耳を傾ける必要があります。

 

15節でパウロは「自分がしたくないこと(憎むこと)を行っている」と書いています。これだけだと、理性が欲に負けているとも読めます。しかし、ここでの主眼点は「律法が良いものであることを認めている」ことです。律法が良いことは知っているし、その律法が「悪」と呼ぶものが悪であることも知っている。そして、その悪を自分は憎んでいる。それなのに、その悪を行っている。以上が論旨です。これは前述のように、明らかにサウロ時代の彼の状態ではありません。その当時彼は律法の善は当然として、その道を(彼としては)喜んで歩んでいたのです。では当時彼(サウロ)は、どうして「律法は善いもの」だと確信していたのでしょうか。まさにそれが大問題なのです。というのは、それが「宗教問題」の根本だからです。彼が律法を信じたのは、彼がそう教わったからでしょう。ユダヤ教の世界に生まれ、そのように育てられたからです。もちろん他の人よりはるかに真面目で熱心で、その道のエリートにさえなりました。いわば生粋のユダヤ人(ユダヤ教徒)なのです。

 

そのような生粋の人はどこにでもいます。生粋の仏教徒、生粋のイスラム教徒、生粋の無神論者など。そのような人にとっての葛藤とは、周囲の無理解など、外部との摩擦とどう向き合うかというものでしょう。それは、自分の信念を貫くか、妥協すべきかどうかというような葛藤です。彼らの信念は不動です。律法は無条件に善なのです。しかし、なぜそれが善だと断言できるのでしょうか。それは、単にそう教わったからだけかもしれません。世界は広く、異なった「善」もあるのではないでしょうか。「善の相対化」という現代のテーマです。

 

これは、何も生粋の信者に限りません。途中で「改宗」した人も同様です。その「改宗」が外から与えられた物である限り、事態は変わりません。「そのように教わった」「真理の知識を得た」「その集団に全幅の信頼を寄せた」など、外部からの影響によって変わっただけならば、それは「改宗」であって「回心」ではないのです。そして、そのような「改宗者」」は、しばしば「生粋の人」よりも過激になる危険性があります。なにしろ、教わったのではなく自分で律法を得たのですから、その自信は相当なものでしょう。このように、生粋の人も改宗者も、結局自信満々の律法主義者「サウロ」と同様となる可能性があるのです。

 

福音は「改宗」ではなく「回心」をもたらします。パウロがここで述べているのも「回心」です。「回心者」でも律法の善は認められます。ただしそれは、外部の教えだけではなく「自分が憎むことを行っている」という自覚が根拠です。この自覚には加えて「その憎むことは悪である」という認識が伴っています。普通、人は憎むことは行いません。好きなことを行い、後から「それは悪かった」と後悔します。あるいは、後悔することがわかっていても好きなことをしてしまいます。理性が欲に負けるパターンです。また、極悪非道の独裁者が人を虫けらのように扱う場合でも、自分はあくまでも正しいと主張します。ですから、自分の行動を悪と認識し、それを憎みつつ実行しているというのは尋常ではありません。それがクリスチャンなのだとしたら、それこそ狂気の沙汰に思えるでしょう。

 

しかし、ここに本質があるのです。以上を単純に言い換えると、自分が罪人である(的が外れている)ことを自覚しているということです。本来、根本的に的が外れているというのは、自分が的外れであることを自覚できない状態を意味します。罪人とは自分の罪を自覚できない人のことなのです。そこに外側から律法が与えられ、罪が指摘されると、その特定の罪に気が付きます。しかし、それだけでは、自分という存在そのものが的外れであるという自覚には至らないのです。ですから聖書は「聖霊が罪を認めされる」と言っています。この「認め」は、パウロの語る「自覚」であり、外側からの欠点の指摘ではありません。律法を正しいと認め、律法の戒めを実行していても、本質的にその人が「的外れである」ということがあり得るということです。

 

キリストと結ばれると、聖霊によって自分が罪人である自覚がもたらされます。同時に、その罪人が受け入れられ、神の子どもとされている恵みを知るのです。時々クリスチャンは、恵みによって救われた(キリストとつながった)ことは認めても、クリスチャンである「今」も恵みによって存在させられていることを忘れてしまいます。しかし私たちは、赦され、ただ恵みによって存在自体が許されています。しかも同時に将来の栄光を約束された神の子どもなのです。この体験が「回心」のであり「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる」のです。