礼拝メッセージ要約

2024310日 「良いものと悪意」

 

ローマ書7章

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 

しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。 

私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。 

10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。 

11 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。 

12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。 

13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

 

前回は「むさぼり」というキーワードを中心に、律法と罪との関係を見ました。もちろん、罪はむさぼりに限定されません。同時に、あらゆる罪には「むさぼり」の要素があることも事実です。今回もあらためて罪と律法の関係を確認します。まず、8節と11節にある「戒めによって機会を捕え」という部分を読みます。

 

律法と罪との関係についてですが、ここでは律法の代わりに「戒め」という別の言葉が使われています。律法とはユダヤ教全体のことですから、その中の「戒め(戒律)」の部分を特に指していると考えられます。(「むさぼるな」が一例です)。罪はこの戒めによって機会を捕えたとあります。「罪」は例によって定冠詞付きの単数形で、パウロの言う「罪そのもの」を指しています。この「罪」が主語となっている(罪が機会を捕えた)ことが第一のポイントです。今までも語られてきたように、この「罪」は単に的が外れている「状態」だけではありません。例えば、物が散らかり放題の部屋は、「物が的外れに置かれている」部屋と言えます。整理整頓の「欠如」の結果です。このように、罪(悪)とは善の欠如であるという思想が古来あります。しかし、罪(悪)は、単なる欠如を超えた、それ自体が力を持つ悪い意味で積極的な性質を持っています。罪の「支配」と呼ばれる所以です。

 

この「罪の支配」が律法を通して実現するというのが7章のテーマです。律法の戒めを通して罪が「機会を捕えた」とある通りです。ここで「機会」とあるのは「出発点」というような意味の言葉です。現代的なイメージとしては、ミサイルの発射台が挙げられます。(ここでミサイルはもちろん罪を表します)。ミサイルが格納庫内にある限り、その殺傷能力は隠れています。しかしそれが発射台に移動し発射されれば絶大な破壊をもたらします。もちろん、ミサイルは人間が発射台に移動するのですが、罪は人為的な作業なしに、律法の戒めを使って「発射され」人々を破壊するのです。ただし、この譬えには欠点があります。発射台とミサイルはそもそもセットで兵器を構成していますが、律法は善いものですから、罪とセットではありません。

 

そこで、別の譬えをあげます。免疫とウイルスのケースです。免疫は異物を排除し人体を守るためにあります。ウイルスが侵入するとそれを破壊するのが仕事です。しかし、ある種のウイルスは人の細胞と類似しているために、免疫が誤認して人の細胞を攻撃してしまうことがあります。いわゆる自己免疫疾患の一種です。(自己免疫疾患はウイルス以外でも起こります)。この場合、ウイルスに何の「意図」もありません。(もちろん、そもそもウイルスに「意図」はありませんが)。しかし、本来良いものである免疫を通して、体を破壊していきます。この譬えの欠点は、攻撃の主体が免疫であってウイルスそのものではないという点ですが、体全体からすれば、ウイルスによって疾患が引き起こされたことには変わりありません。

 

これらはいずれにしても譬えであって、罪と律法の関係を忠実に描写しているのではありませんが、ある程度のイメージを持つには役にたつでしょう。パウロは「罪(単数形)」を擬人化しています(ほとんどサタンと同義になることもあります)。つまり罪に「悪意」があるような描写です。良いものを悪用する人の例はいくらでもあります。表現の自由を悪用して他人の価値をおとしめる人。ネットを悪用してうそを拡散する人。人の善意を悪用して寄付を横領する人。愛国心を悪用して戦争を仕掛ける人。理想を悪用して社会を破壊する人。そして宗教を悪用して人々を堕落させる人。悪人は善人の面をかぶったり正義を振りかざしたりするのは日常茶飯事です。これらの悪人は「自称善人」であることがポイントです。

 

自称善人には、自らの「律法」(行動パターン)があります。(パターンがない人は、ただの滅茶苦茶な人であって善人を自称できません)。その律法とは、自由、発展、秩序、平等、富の再分配、家庭の再構築など、それ自体は良く見えるものばかりです。一般的には、それらの「良いもの」は単に建前であって、本音は醜い利得を求めているだけだと考えられます。もちろんそのような場合もあるでしょう。被害者から見れば、良いものを悪用するとは「極度に罪深い者」(悪質で悪賢い者)だということになります。ただし、その場合なら、悪用する者を判別・排除し、良いそのものは維持すればよいのですから、罪と律法の深い問題とは異なります。

 

より根本的な問題は本音と建て前を使い分けではなく、「良いもの」と「悪意」が一体になってしまうことです。13節でパウロは、「良いもので死をもたらすことによって、罪は極度に罪深くなった」と書いています。極度に罪深いのに良く見せていたというよりも、罪は律法を通して極度に罪深く「なった」のです。罪が激しく増大したということです。罪はその程度が固定しているのではなく、もはや手に負えないレベル(致命的なレベル)まで増大しました。そこでは、罪は律法を呑み込み、律法と一体化していて、もはや切り離すことができません。もちろん、律法自体は聖なるものです。それが聖であればあるほど、それを通して発現する罪は大きいのです。「極度に罪深い」と訳された言葉は「徹底的に比類なく、限度を超えた」というような意味です。文字通り「最悪」です。律法と結びついているので、手の施しようがないのです。

 

このレベルの罪となると、自らの「正義」に基づいて悪を行います。彼のしていることは彼にとって完全な善なのですが、それは死をもたらします。私たちは、現にそのような世界を見、そのような世界の中で生活しています。13節に、「この良いもの(律法)で死をもたらすことによって、罪として明らかにされ」とある通りです。逆に言うと、このような形で現れていない「罪」は、まだその正体をはっきりと現していないということです。一般的な理解では、律法と罪は対極にあり、律法は罪をさばき、あるいは抑制すると思われていますが、そのレベルの「罪」は本性を見せていないのです。もう一度「免疫」の例で譬えるなら、もっとも厄介な癌は免疫細胞が癌化した場合です。悪い細胞を攻撃するはずの免疫細胞自体が狂っていては、肉体のシステムとしては手の施しようがありません。

 

このような極度の罪深い状況は、言うまでもなく創世記冒頭に記されているように、アダムとエバの背信に基づいています。「善悪の知識の木の実」を食べ、いわば律法を内在化し、自らを神のレベルと対等としようとした彼らは、毒を食べたのではなく、良いものを食べたのでした。過ちは、その「律法」の内在化そのものが、律法に反していたことです。良いものを食べたのに良くなかったという逆説があるのです。この逆説を逆転し、私たちを解放するためこそキリストは来られました。そして、その恵みは皆に開かれているのです。