礼拝メッセージ要約
2024年3月3日 「むさぼりについて」
ローマ書7章
7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
11 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
「文字の古さではなく御霊の新しさによる」「文字は殺し霊は生かす」という、福音の根本テーマに入っています。7章のこの部分では特に「文字」の否定面について語られます。ここで「文字」とは、まずはモーセ律法のことを指していますが、これまでも見て来たように、それはユダヤ人以外も含むすべての人に関する話でもあります。7節では、まず律法の基本的な機能について振り返ります。大前提は、「律法自体は良いものである」ということです。
すでに何度も取り上げられたように、律法の機能のひとつは、潜在的に隠れている罪を顕在化する(明らかにする)というものです。いわば、霊的・倫理的・宗教的な健康診断のようなものです。症状には現れていなかった病気が診断によって判明するケースです。この時、悪いのは病気であって診断ではないのは明らかです。ただし、モーセ律法がなければ、だれも罪を自覚できないかと言えば、そうではないでしょう。5章で語られたとおり、モーセ律法以前にも罪はありました。律法あるなしに関わらず、死が支配してきたことがその証明です。罪と死が関連しているということを認識できるならば、人間の生死には何か問題があることが分かるはずです。事実、古来あらゆる文化で、死者の葬りや死後の世界への関心がありました。
しかし、その罪の実体が明確になるには、もちろん何かの「文字(言い伝えも含めて)」が必要です。つまり「言語化」されなければ、罪は曖昧なままです。ごの「言語化」こそ最重要問題なのですが、詳細は後に譲ります。今は、まずひとつの具体例としてパウロが取り上げている「むさぼり」というキーワードに絞って考えます。ここでの「むさぼってはならない」とは、言うまでもなく十戒の最後の戒めです。要約すれば隣人のものを欲しがるなという戒めです。それだけなら、モーセに言われなくても分かる普通の道徳に過ぎません。(守るかどうかは別の話ですが)。ですから、パウロが「むさぼりという罪」を語る時に、表面的な道徳だけを問題にしているのではないことに注意が必要です。
この点についてまず明らかなのは、「むさぼる」とは「欲しがる」という心情のことで、必ずしも具体的な行動を伴わないという点です。欲しがっても我慢すれば道徳的には許容範囲でしょう。十戒では隣人のものに絞っていますが、自分が今持っておらず、他人が所有しているものすべてを指しているならば、およそあらゆる欲が当てはまることにもなります。(だからこそ、世の中には、あらゆる欲望を捨てることを目指す、禁欲主義の宗教も存在するのです)。「お金が欲しい」という単純な欲望でも、さて自分に割り当てられているお金はそもそもどれほどで、他人の分はどれほどなのかということになると、決して単純な話ではないでしょう。外面的に「分をわきまえる」だけで済む話ではありません。それだからこそ、法律では実際の行動だけを規制し、内面には立ち入らないという原則が確立されてきました。(現実に守られているかは別の話です)。他人のものを欲しがっても奪わなければ大丈夫なのです。
そのような法律体系を崩すのが「欲しがるな」という内面への戒めです。ポイントは欲しがること自体以上に、隣人のもの(自分に属さないもの)という所です。今までは「欲しくても我慢していて済んだ」のですが、欲しがること自体を問題視されたことで、事態は急速に複雑になりました。もちろん、心にあるものはやがて表にでてくるとすれば、心にある間に「予防的に」悪の芽を摘み取っておこうと言うのも一理あるように見えます。そして、しばしば宗教はそのようにして心の問題を扱うのです。それで事態が良くなるのなら話は簡単です。しかし、現実は全く違います。実際には、心の問題を扱うと、事態は良くなるどころか悪くなるのです。その理由はいろいろありますが、まず発生するのは、「自分に属さないものを欲しがるな」という時、何が自分に属していているのかが問われるという点です。(十戒にあるような、隣人の妻であれば分かりやすいですが、それはむしろ例外でしょう)。現実に起こるのは、「それはあなたのものではない」と言われた人が、「いや、本来なら自分のもののはずだった」と感じることです。つまり、欲しがるなと言われると、それまでは受け入れていた現状に対して目覚め、自分が不当に扱われていると思うのです。
もちろん、実際に不当な扱いを受けていることも多いでしょう。本来自分のものであるはずなのに他人がそれを奪っているなら、それを取り返すように求めるのは(実際に行動を起こさなかったとしても)正義とみなされます。こうして、例えば、資本家から不当に搾取されていた労働者は革命を求めるということも起こります。逆に、自らの業績で資本を築き上げた人にすれば、だれでも一律の経済を享受するなど、不正に違いないということになります。このような分かりやすい例ばかりでなく、より一般的に言えば、「人は禁じられると欲しくなる」のであり、それは自分が不当に扱われていると感じるからだということです。言い換えると、禁じられた側は、禁じた側に対して、「おまえにそれを禁じる権利があるのか」と反発するということです。「自分のものと他人のものとの区別を設定し、その区別を守れと命令するおまえはだれなのか」という問いです。
この問いが、アダムとエバの失楽園の話から来ているのは容易に想像できるでしょう。神は彼らに「善悪の知識の木の実」を食べるなと命じました。聖書を批判する人は「そもそも食べてはいけないものを何故置いたのか」と言います。よくある答えは、「命令を守るかどうかを試す(愛を試す)」ためだったというものです。しかし、それは物事の一面にしか過ぎません。問題は、禁断の実を食べたこと以前に、それが欲しくなったという点です。食べるなと言われたので、それはより魅力的になったのです。モーセ以前にすでに神の戒め(律法)はあり、まさにこの戒めは「禁止の戒め」の第一号です。なぜ神がそのようにされたのかについては、それこそ神のみぞ知ることでしょう。しかしその意味は明白です。律法は罪を助長するという厳然たる事実です。それは、アダムとエバだけでなく、すべての人に当てはまることなのです。
「むさぼるな」と言われた瞬間、自分のもの(領域)は固定されてしまいます。それに対する不満から、あらゆる方向に「むさぼり」は拡がっていきます。「あれもこれも本来自分のものだったのに」と感じるのです。複雑なのは、それが事実である場合もあるということです。このようにして、社会はあらゆる種類のむさぼりが蔓延し、何とか法律でコントロールをしようとするのですが、その法律がまた新たな「むさぼり」を引き起こします。このような世界から救い出してくださるのがキリストの福音なのです。