礼拝メッセージ要約
2024年2月25日 「預言者たちによって」
ローマ書7章
1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。――
2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。 3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
6 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
救いとは解放です。そして罪からの解放と律法からの解放は一体の出来事です。これが「福音」の神髄であり革新的な所です。この点についてパウロはこの後も解き明かしていくのですが、その前に、この「革新」とは「古い文字ではなく新しい御霊による歩み」であると述べられています。今回はこの部分を読んでいきます。
ここで「古い文字」「新しい御霊」と訳されているのは、直訳すると「文字の古さ」「霊の新しさ」です。「古い文字」という訳でも、それがすなわち「律法」を指し、「御霊(聖霊)」と対比されている限り問題はありません。ただし、うっかり「古い文字」に対して「新しい文字」があるかのように誤解する人が多いので注意が必要です。あくまでも「文字」と「霊」が対比されていることを忘れてはなりません。第二コリント3章6節には「文字は殺し霊は生かす」という重要な句もあります。パウロは7章以降で、いかにして文字は殺すのか、そして霊は生かすのかを論じていくのですが、今回はその背景にある旧約聖書の言葉を確認します。パウロの言葉がいかに革新的であっても、それが旧約と無関係なものであるならば単に個人的な見解に過ぎないからです。しかし、パウロが言うように、この福音は旧約に預言されていたのであり、その意味では「律法の完成」でもあります。「律法からの解放」が「律法の完成」でもあるという「逆説」に福音の神髄があるのです。
まず、新しいという時に、何がテーマになっているかが問題です。もちろんそれは「私たちの新しい歩み」に行きつくのですが、その前提として、新しい時代(アイオーン)と到来が主題となっているのです。6節に「しかし、今は」という、新時代の到来を告げる常套句があることからも分かります。永遠のいのちは、この「新時代(アイオーン)」のいのちであることはすでに学びました。私たちは、単に「古い人生」と「新しい人生」といった一般論ではなく、この「新時代」すなわち「神の国」という中心テーマから考えなければなりません。そして、この「新時代」について多くを語っているのが「預言者たち」です。その中で、今回はエゼキエルとエレミヤの預言を読んでいきます。
のまず、エゼキエル書36章後半です。他の預言者たち同様、バビロン捕囚となったユダヤの民に対して祖国への帰還を約束する文脈の中で語られています。「彼らは、律法に背き、約束の地を汚したので、その地を負われ捕囚となった。しかし、彼らは必ず帰国する」という希望は、単なる将来の希望に留まりません。むしろ、その先にある、いつまでも終わることのない神の国を預言しています。すなわち、続く37章では「枯れた骨の谷」の預言でイスラエルの復活を描き、38章、39章では終末の「黙示」が語られます。そして40章以下は、来るべき神の国の幻が象徴的に描写されるのです。因みに、ここで登場する神殿はもちろん現実に存在したいかなるものとも異なり、あくまでも幻ですから、バビロン捕囚からの帰還とは別の話です。いずれにしても、捕囚(奴隷状態)からの解放と約束の地の相続、そして、そこで神が直接統治し、祝福がいつまでも続くというパターンは変わりません。
以上のことは、いわば外側から観察できることですが、36章では、その内実が語られています。26節「あなたがたに新しい心を与える。あなたがたのうちに新しい霊を授ける」という箇所です。来るべき時代の人々は新しい心、霊を持っているのです。この「新しい霊」の授与が福音の中心であることは言うまでもありません。約束の地に戻っただけで、人の中身が同じなのでは意味がありません。新しい心が必要です。ただ、エゼキエル書では続く27節に、新しい霊によって神の掟を守るようになるとあるので、それが単に律法に帰るという話に留まってしまう可能性もあります。そこで、続けてエレミヤの預言も読む必要があります。31章31節から34節です。
要約すると、「新しい契約が結ばれる。律法を彼らの心に書きしるす。人々はもはや『主を知れ』と言わない。皆が主を知っているから」というものです。ここに「新約」が預言されています。「律法を心に書きしるす」という部分は、エゼキエルの「新しい心」につながります。問題は「主を知れ」とは言わなくなるという部分です。それが「律法が心に書かれた」結果なのです。律法を単なる規則の集合体としか見ない人は、律法の本質を忘れています。律法は「神を愛すこと」と「隣人を愛すこと」に要約されるのです。もちろん、神を愛すことが土台です。聖書の「知る」は深い交わりをも意味しまうから、「愛す」ことと同義です。ですから、旧約から新約への転換とは、「神を愛せ」から「神を愛す」への転換と言えます。しかし、旧約でも人々の一部は神を愛していたのではないでしょうか? 反対に、新約の時代なら皆が神を愛しているのでしょうか? まさにここがポイントなのです。
エレミヤで約束されている新約とは「律法の内在化」です。ただし、聖書を暗記し常に心に留めているという次元ではありません。それは旧約でも言われていたことです。新約で約束されているのは、自動的に、律法を守るという意識もなしに、自然に行動し、しかもそれが律法を全うしている状態です。言い換えると、正真正銘の神の子どもとされることです。もはや僕(奴隷)ではなく子であり、弟子ではなく友です。キリストの似姿に変えられることです。新約が約束しているのはこれです。そして、その次元から振り返れば、現状は長い道のりの途上であることは明らかです。私たちは、「すでに・いまだ」の中に生きています。新しい契約はキリストの十字架と復活によりすでに結ばれました。そこに約束されている事柄が完全に現れるのは将来です。すなわち、私たちもキリストに与って復活する時に完成するのです。私たちはその希望の中で今を生きています。この消息は、8章で詳しく学ぶことになります。今のところでは、新しい契約・新しい心・律法の内在化・新しい霊といった表現が一つのことを指しており、それが「終末的」な事態であることを確認しておきます。
このように、「文字の古さ」と「霊の新しさ」の対比は、エレミヤやエゼキエル(さらにはイザヤなど)の預言者たちの預言に基づいています。そしてそれは、常に奴隷状態からの解放という「自由」が中心テーマとなっています。言い換えると、物理的な解放と内面的な自由が共に成就することがゴールです。その中心に、律法からの解放があり、しかもそれは、律法の内在化によって達成されるという「逆説」なのです。そしてそれは人間の業では達成できません。というのは、私たちは律法に対して死ぬことによってのみ、そこから解放されるからです。ただし、私たちはキリストと共に死ぬので、キリストと共に生きることができるのです。