礼拝メッセージ要約

2024年2月18日 「死のために結ぶ実」

 

ローマ書7章

それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。―― 

夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。 

私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。 

私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。 

しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

 

結婚のたとえを通して、パウロは私たちがキリストと結ばれていることを説きました。それは、「神のために実を結ぶようになるためです」。この「神のために実を結ぶ」という言葉と、「死のために実を結んだ」過去を対比しています。この「神のために実を結ぶこと」のが具体的にどのようなものなのかは書かれていませんが、ガラテヤ書で「御霊の実」として述べられており、また、福音書でたびたび登場する「豊かな実り」と関連していると思われます。注目するのは、その反対が単に「実を結ばない」のではなく、「死のために実を結ぶ」と述べられていることです。人の営みはどんなものであっても何らかの実を結びます。すなわち、最初は目に見えなかったものが、具体的な形をとって見えるようになります。あるいは、最初は小さかったものが大きくなり、もとにもどらない状態になります。人も社会もこの流れから自由であることはできません。

 

このことについては、福音書の中で「麦と毒麦のたとえ」としてイエス様が述べておられます。世界には麦と毒麦の両方があり共に成長しているのですが、両者は非常に似ているので、最終段階になるまでは区別ができません。そのため、現在は毒麦の存在も許されているのですが、最終的には神が収穫をされ、毒麦は排除されることになります。これは、終末のビジョンであり、現在の複雑な事情と、将来への希望が提示されています。パウロも、この終末のビジョンそのものは維持しつつも、同時に、この「終末」が始まっていると言っています。(それが福音です)。そのため、「終末」が部分的には現れていて、麦と毒麦もその一部は区別できるのです。言うまでもなく、麦は「神のために結んだ実」であり、毒麦は「死のために結んだ実」です。

 

この「麦と毒麦」の区別は、すでに表れてはいるものの、決して容易に分かるものではありません。もし、麦が「清く正しい宗教世界」で、毒麦が「堕落した醜い世俗世界」のことならば、区別は容易でしょう。しかし、実体はそのようなものではありません。ここにローマ書、特に7章のテーマがあります。5節でまずパウロは、死のために実を結んだ私たちには「数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていた」と言っています。ここで「欲情」と訳されている言葉は「パッション」で、一般的には情熱と訳されています。「強い感情」のことで、それ自体に悪い意味はありません。その「強い感情」には苦しみも含まれています。(パッションには受難・受苦の意味もあります)。もちろん、「罪の欲情」は「的外れの情熱」ですから悪いものなのですが、それが一見悪く見えないとことが問題なのです。(犯罪への強い意欲を持っている人を「悪人」と呼ぶのは単純な話ですが、それとは別のことが問題となっているのです)。

 

この「的外れの情熱」は私たちのからだの中に働いているとあります。この「からだ」と訳されているのは「私たちの諸部分(パーツ)」という言葉です。現代風に言えば、人というシステムの諸パーツに、暴走した強いエネルギーが働いているという感じでしょう。もちろん、情熱の誤った使い方ということなら、この世の次元でも理解できます。問題なのは、それが「律法によって(律法を通して)」働いているという部分です。これまでも学んできたように、律法が罪の欲情を押さえるはずなのに、逆に律法によって罪の欲情が働いているという逆説こそがテーマなのです。このテーマはこれまでも取り上げられてきましたし、7章後半のメインテーマでもあります。繰り返しが多いように見えますが、それはこの真理が非常に微妙で重大だからです。繰り返しますが、律法は罪を抑制できず、むしろ助長するのです。そして、この意味での「律法」は社会を支える根本的な価値観のことですから、単にモーセ律法(ユダヤ教)だけでなく、すべての人に当てはまることなのです。

 

まずパウロの場合で確認します。彼の情熱は言うまでもなく律法を実践することへの情熱でした。それは、彼の諸部分どころか全体を貫いていました。その部分ひとつひとつを見ると、おそらく「良いこと」への情熱であったことでしょう。「敬虔な礼拝」「隣人への奉仕」「社会正義の実現」「清く正しい生き方」など。それらが何故「的外れ」なのでしょうか。その理由はともかく、結果は明らかです。すなわち「キリスト者の迫害」です。そしてキリスト者の迫害は、すなわちイエス様ご自身への憎悪と攻撃であることが示されたのでした。問題は、それがパウロの律法に対する誤解あるいは不徹底からなのか、それとも律法そのものの本質から来るのかということです。パウロの結論は後者であり、パウロに反対する人たちの結論は前者です。これは簡単に決着できることではありません。ただ、キリストご自身がパウロに現れたことによって、パウロ自身では決着がついたのです。

 

このパウロのケースを私たち自身に当てはめて考えてみましょう。もちろん時も場所も事情も全くことなるのですから、表面的な比較では無理です。しかし、以前にも学んだように、律法は社会システムを支える価値体系ですから、その基本機能は秩序の維持にあります。そして秩序の維持は良いものであり絶対に必要なものでもあります。秩序を維持する一番手っ取り早い方法は「異物を取り除く」ことです。モーセ律法だけでなく、多くの宗教もその役を果たしています。もちろん、いわゆる「宗教」だけでなく、あらゆるイデオロギーも同様です。このような保守的態度は、ゆるんでしまうと異物が増え不安定化します。しかし排除しすぎると反発をまねき、これも不安定化します。いずれにしても、いずれは改革が必要となり、場合によっては革命にいたるのです。これは歴史の必然であり、私たちもそこから逃れることはできません。もちろん、キリスト教もその例外ではありません。

 

パウロのような律法追及の態度とは、要するに強烈な保守ということであり、それは徹底した「排除の論理」です。それが、罪人の友となられたイエス様と正反対であることは一目同然でしょう。しかし、反対に律法に不熱心であれば解決するということでもありまえん。それも崩壊への道です。また、その保守に対抗して登場する「革新」にも同じ命運が待っているのですから、人は「排除」と「混乱」の世界から離れられないのです。これが律法の世界です。

 

ですから、この呪縛から逃れる道はただひとつ、すなわち「律法から解放される」ことです。言うまでもなく、それは無律法の混乱に戻ることではなく、律法を超えることです。そして今や、「私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放された」のです。もちろん律法が消滅したのではなく、私たちが律法に対して死んだからです。(律法を無視したのではありません)。そして、その時に初めて「古い文字ではなく新しい御霊による歩み」が始まるのです。この「御霊による歩み」が今後のテーマになります。