礼拝メッセージ要約
2024年2月11日 「律法の権限−結婚のたとえ」
ローマ書7章
1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。――
2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。 3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
6 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
6章で、パウロは奴隷の比喩を使い、「罪の支配から解放された」現実について語りました。その中で、もはや律法の下にはいない(支配下にない)という重要な点が触れられています。この律法の問題はこれまでも繰り返し登場しましたが、それでは足りないのでパウロは改めて7章で語ることになります。ユダヤ人にとって「罪からの解放」は良い話でしょうが、「律法からの解放」となると穏やかではありません。ユダヤ人ではない私たちには煩雑で分かりにくい話かもしれません。しかし、これまでも学んだように「律法」の問題はモーセ律法だけではなく、価値観や社会のシステムといった普遍的な話でもあるので、引き続き注意深く読んでいくことが必要です。
まず1節です。パウロは「兄弟たち」に向かって語りかけます。この「兄弟たち」とは「律法を知っている人々」です。律法と訳されている言葉はあらゆる法・原理を指しますが、まずは常識的に「ユダヤ人」を指していると思われます。(その上で、普遍的な問題へと展開していきます)。ユダヤ人にとって「律法」はいのちです。場合によっては自分のいのちよりも大切でしょう。パウロ自身もその一員です。そのような人々に対して、「律法からの解放」を説くのは容易ではありません。それどころか、致命的でもあります。パウロ自身が迫害されるということに留まらず、パウロの説く「福音」そのものの根本にかかわることでもあります。このような「律法からの解放」を含めずに、キリスト(メシヤ)を異邦人支配からの解放者、また律法順守を実現する教師として紹介するだけなら、事態は簡単だったでしょう。しかし、それでは「福音」ではなくなってしまいます。
まずは、「律法からの解放」を、結婚の比喩を使って強調します。ただし、ここでの「結婚」は霊的なことではなく、法律婚の話です。要するに、結婚に関する法律は生きている人に対してのみ効力があるという、それ自体は当たり前の話です。夫と死別した妻は再婚できるという例があげられています。(妻の不貞だけが取り上げられているのは男女差別だという意見もありますが、論点がずれています)。ではそれが、律法の問題とどう関係するのでしょうか。パウロの議論はやや複雑です。夫の死によって妻は夫に関する律法から解放されたのですが、ここでの妻はパウロが兄弟たちと呼び掛けている人々のたとえでしょう(もちろん、結果的には私たち全てを含みますが)。パウロが言いたいのは人々が「律法そのもの」から解放されたということです。では「死んだ夫」に対応するのは何なのでしょうか?
まずそれは「律法そのもの」ではありません。律法が死んだ(無効になった)ので私たちが律法から解放されたわけではありません。4節を見ると「あなたがた(兄弟たち)」が律法に対して死んだと書かれています。死んだのは律法ではなく「あなたがた」です。この部分だけとると「結婚のたとえ」との対応関係は崩れているようです。しかし、結婚に限らず、「人は死んだら、すべての律法から解放される」という原点は変わりません。注目するのは「律法に対して死んだ」のは「キリストのからだによって」(からだを通して)であるという部分です。ここでの「キリストのからだ」が何を意味しているのかは触れられておらず、やや神秘的な表現です。(この「からだ」は肉体ではなく全存在を表す言葉です)。キリストを通してではなく、あえてキリストのからだを通してと言うのはもちろん意味があるからですが、それは他の書(コリント書やエペソ書)などを参照することが必要です。ここでは、あくまでも律法と人との関係が主題なので、「からだ」の事には深入りせず、とりあえずは「キリストを通して律法に対して死んだ」という理解に留めておきます。この理解自体はこれまでも何度も取り上げてきたので一旦保留し、もう一度「結婚のたとえ」との関連に戻ります。
「律法に対して死んだ私たち」という観点とは別に、私たちが以前結ばれていた「夫」は何かということを考えます。それは6章までの話から「罪」と言うことができるでしょう。この意味での夫は私たちを奴隷にしている主人という意味になります。6章で「罪から解放されて神の奴隷となった」とある通りです。7章では「神の奴隷となった」という部分が「死者の中からよみがえった方(キリスト)と結ばれた」となっています。ここに、奴隷のたとえとは別に結婚のたとえが使われている意味があると言えるでしょう。神の奴隷は通常私たちが想像するような奴隷ではなく、キリストの花嫁でもあるという根本事実です。この「キリストの花嫁」も聖書の重要なテーマですが、ここでは詳細は語られていません。ただ、「キリストの花嫁」にはユダヤ教(旧約聖書の伝統)という背景があることは見逃せません。すなわち「神(ヤハウェ)の花嫁であるイスラエル」という観念です。
旧約聖書の世界を「恐ろしい絶対君主である神が、イスラエルを律法で統治し、背くものには容赦なく罰を下す」というイメージだけで捉えるなら、それは一面的な解釈で誤りです。神(ヤハウェ)とイスラエルは夫と妻のように愛によって結ばれているはずなのです。だからこそ、「あなたがたの主である神を愛す」ように命じられているのです。その愛を土台として隣人愛が説かれており、これらが律法の土台であり全てであっても過言ではありません。因みに、恋愛や夫婦の性愛を歌っている「雅歌」が聖典に入れられたのも、それを神とイスラエルの象徴として解釈したからでした。この「愛の神」はユダヤ人にとって根本事実です。しかし同時に、その神が恐ろしい裁きの神であることも根本事実です。この相反するイメージをユダヤ的に結びつけるのが、「ねたむ神」というイメージです。すなわち、夫に愛されているにも関わらず不貞(不倫)を続ける妻に対して怒る夫という構図です。(繰り返しますが、このようなイメージはあくまで「たとえ」であることを忘れてはなりません。人間の世界では、いくら良い夫でも、妻がそのようになったのには夫にも原因があるのではないかという話にもなりますが、それはたとえを機械的に解釈する誤りです)。
「それならば、旧約時代にも神を愛した人々がいたのだから、今も同様にすればよいではないか」という意見が当然出てくるでしょう。神を愛するかどうかはその人の選択の問題なのだという見解です。しかしそうではないとパウロは言うのです。確かに罪は人の選択でもありますが、罪が人を支配しているという現実が先にあります。人は自発的に、しかし同時に宿命的に罪を犯すのです。ここでも神の主権と人の自由意志の問題があり、単純な理屈で語ることはできません。またパウロもそのようなことはしませんが、これは改めて9章以下で大問題として取り上げられます。7章では、罪の支配と律法の支配が一体であるという衝撃的な内容を語る方向に進んで行きます。いずれにしても、私たちが罪から解放されたのは、キリストの花嫁となるためです。6章で「キリストとつながった」と言われていた部分が、個人の内的体験だけでなく、イスラエルの歴史を背景とした「神と人との愛の物語」でもあることを確認し、賛美をささげましょう。