礼拝メッセージ要約

2024年2月4日 「永遠のいのち」

 

ローマ書6

19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。 

20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。 

21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。 

22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。 

23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

ここまで、義とされた者たちの歩みについて語ってきました。それは「清潔」、神に聖別された歩みです。22節と23節で、この歩みの真実についてまとめられています。第一に、罪から解放されて神の奴隷となったことです。パウロが「奴隷」の例えで説明してきた通りです。その結果として「聖潔」に至る実を得ました。この「実」が何であるかは明示されていません。ガラテヤ書などから、「聖霊の実」と解釈できるでしょう。その「実」は「愛」という言葉に集約されるのですが、ここではそれが「聖潔」に至るという点がポイントです。そして、それは「実」すなわち「結果」ですが、もちろん人間の努力の結果ではなく、聖霊の働きの結果であることも重要です。しかし詳細は後で触れます。今回は次の文章にある「永遠のいのち」について学びます。

 

23節で、「罪の報酬→死」と「神の賜物→永遠のいのち」とが対比されていて、非常に明確なメッセージになっています。それほど大切な「永遠のいのち」なのですが、前回も触れたように、それは霊的な内容を持ったことばなので、注意深く読むことが必要です。また、「永遠のいのち」はヨハネ福音書の中心テーマでもあるので、そちらも同時に参照しながら読むことになります。因みに「神はそのひとり子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が滅びることがなく永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)は福音のエッセンスと言われ、宣教の現場でも度々引用されます。それだけに、「永遠のいのち」によって私たちが何を語っているのかが大切になります。

 

世間でのイメージはおおよそこのようなものでしょう。「宗教では、死後に行く場所があると考えられている。仏教では極楽か地獄であり、キリスト教やイスラム教などでは天国と地獄である。それぞれの宗教で、地獄ではなく極楽ないし天国に行く方法が教えられている」。「そして、その場合の「天国に行って暮らすこと」がすなわち永遠のいのちである」というふうに。そのイメージ自体は構いませんが、聖書を少し研究している人からすると、それはやや雑な理解に見えます。あるキリスト教系新宗教はその点をついてきて、彼らの組織だけが正当であると主張しています。それはともかく、まずは謙虚に聖書を読んでいきましょう。

 

「永遠のいのち」という言葉でまず問題となるのが「永遠」の部分です。その原語は「アイオーン(の形容詞)」(日本語ではイオンとして知られています)です。アイオーンは、特定の時代を指す言葉で、形容詞の場合は、その時代の特徴を意味します。(そのため前述の組織では事物の体制と訳しています)。ユダヤの終末論的伝統では、「来るべき世」という観念がありますが、その「世」、すなわち神が統治される世界・時代を指していると考えられます。つまり来るべき「神の国」です。その神の国が、死後の天国というイメージに転化したのは、その神の国が「終末」の出来事なので、今の人生の後という意味で「死後」の話になったのでしょう。もちろん、「終末」的事態は死後も含みますが、それだけではなく今も関わることがらです。問題は、その「時代」の質なのです。その時代とは、神が統治する時代(神の国)ですから、永遠のいのちとは、神が統治する時代のいのちという意味になります。

 

これをユダヤ的に解釈すると、今の時代(異邦人と罪が支配する時代)は終わり、後の時代(神が律法によって統治する時代)が将来訪れ、その時代に生きることが「永遠のいのち」となります。(前述の組織でも類似した解釈です)。その意味では、「天国」を未来の地上の出来事と見ていて、通俗的な「死後の天上の世界」とは異なります。聖書の表現は、「神の国が来ますように」であって、「天国に行けますように」ではないので、そのような解釈も成り立ちます。しかし、聖書にはエノクが神に移された話や、エリヤが天に上げられた話など、多様な描写があります。またパウロ自身も死んでキリストと共にいる望みも語っています。このように聖書の表現が様々なのは、いずれも今は目に見えない事柄を象徴的に語っているからです。それは当然であって、無理に一つの形に限定するのは無理です。私たちは、現在の「天上の世界=霊的な世界」も、「将来の地上の世界」も合わせた、いやそれ以上の世界として受け取るべきでしょう。その世界を地上のものを使って語る場合、あくまで「たとえ」であることを忘れてはなりません。

 

以上の話は大切ですが、まだ入り口に過ぎません。というのは、結局大切なのは「どこで生きるか」ではなく「いのちの質」そのものだからです。例えば通俗的な意味での天国に、今の自分がそのまま行ったとしても、全く場違いになることは間違いないでしょう。「アイオーン」とは「神の支配(国)的な質」のことですから、神によって支配されているいのちこそが永遠のいのちなのです。それでは、今ある一般的ないのちは何なのでしょうか。それは、神が創造した物質と法則が支配するいのちです。いわば、神が間接的に支配しているいのちです。それに対して「アイオーンのいのち」は神が直接支配するいのちであり、場合によっては物質法則の制限を受けないこともあります。聖書には極めて限定的ですが、そのような直接支配の事例が「いやし」や「奇跡」として記録されています。それらは、神の支配を感じさせる「しるし」として大切ではありますが、焦点は「自然法則の超越」ではなく、そのしるしが指し示している「神の支配」という現実です。問題は「自然か超自然か」ではなく、「罪の支配か神の支配か」であることを忘れてはなりません。それは、一生の長さや「体制」の持続性とは別の問題なのです。

 

とは言え、寿命があり、様々な自然の制約下に生きている人間が、それらを超越した世界を夢見るのも無理はありません。まして、キリストの復活を知った私たちが、キリストと共に「いつまでも生きる」ことを望むのは当然のことです。そのようなクリスチャンの希望や信仰の事とは別に、「永遠」を「時間を超越した(無時間的)」という意味に解釈する人々の問題もあります。しかしそれはもはや哲学や科学の話になってしまうでしょう。というのは、そもそも「時間」とは何かという至難の問いがあるからです。時間が何なのか分からないのに、時間を超越することなど分かるはずもありません。ですから結局人々は「永遠」を単に「終わりのないいつまでも続く状態」としてかイメージできないのですが、そのイメージすら漠然としたものでしょう。私たちの関心はどこまでも、「これこれの事柄は、神の直接支配の結果なのか、そうではないのか」です。そして、その支配がいのちそのものにまで及ぶことを、パウロは語っているのです。そして、その支配はすでに始まりました。すなわち、「聖別」であり、様々な領域が神のものとされ、神の支配が及ぶようになるのです。

 

ですから、繰り返しになりますが、この「神の支配」の実体が最重要テーマとなります。神はいかにして支配するのか、人間と同様に力や法律、あるいは人気投票で支配するのか、それとも、福音の示すように恵みによって支配するのか、それが問題です。ですから、パウロは7章で再び律法のことを語ることになります。