礼拝メッセージ要約

2024128日 「人間的な言い方」

 

ローマ書6

19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。 

20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。 

21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。 

22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。 

23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

パウロは、罪の支配下にあることを「罪の奴隷」、その反対を「義の奴隷」と呼んで説明しています。ただ、これは19節にあるように、「人間的な言い方」であることに注意が必要です。第一コリントでパウロは、「御霊のことばをもって御霊のことを説く」と言っています。人間に属する言葉では、真の意味で御霊のことを語ることができないからです。そのために、御霊に属する人には「霊的」に語るのですが、当時のコリントの信徒たちは「肉に属していた」ので、幼子に対するように語るしかありませんでした。(肉に属しているといっても不信者ではなく、キリストにある幼子のことを指しています)。コリントの場合、御霊の賜物を豊かに受けていたにもかかわらず、党派心が強いという問題がありました。党派心が強いということは、彼らがキリストにつながるよりも、この世の人間関係に依存していたということです。また、多くの不品行もありました。そのような「幼子」に対しては、まるで「幼児食」のようにやわらかい言葉しか与えられなかったのです。もちろんそれは、彼らもやがては成長し、「固い食物」すなわち霊的な言葉を理解できるようになることを期待してのことです。

 

ローマでの当面の問題は、律法主義と不法主義(恵みの下だから罪を犯しても良いという考え)です。彼らもクリスチャンですから、キリストにある幼子と言ってよいでしょう。当然そこでは霊的な言葉は通じませんから、パウロは「人間的な言い方」をする必要がありました。「人間的な言い方」ですから、当然私たちにとっても分かりやすい話です。まずはそれを理解した上で、人間的なレベルを超えた霊的な内容を把握する必要があります。奴隷の話は、少なくとも当時の人には分かりやすかったでしょう。罪に仕えるか義に仕えるかの選択を迫られた上で、義を選択するのは当然だということです。ただし前回学んだように、それは容易に律法主義に陥ってしまう危険性もはらんでいます。そこには、人間の選択すなわち「自由意志」と神の「予定」との兼ね合いという深い問題があるのですが、幼子がそこに深入りするのは得策ではありません。まずは、一般的な意味で「義」を選択することを促さなければなりません。

 

そのために、ここでは聞く人の「利益」について語ります。罪の奴隷であった時のことを思い出させ、「あの頃の恥ずべき行い」から何か益があったのかと問います。「あのままだったら、いったい今はどうなっていたと思うか」「それこそ悲惨な状態になっていただろう」「そして最後は惨めな死が待っていただろう」といった感じでしょう。この説得は多くの場合有効でしょう。ただしこれだけでは、いわゆる「これからは真面目に生きようね」という世間の励ましとの違いが曖昧です。ですから、やはり「死」に対して「永遠のいのち」(22節、23節)のことを語らないわけにはいきません。そして、それはどうしても「霊的」なことがらになってしまいます。

 

また、この「人間的な言い方」には別の制限もあります。常識的には、目の前に「死」と「いのち」がある場合、いのちを選ぶのが自然でしょう。そもそも人間も生物であり、生存本能があるのだから当然です。ところが何故が人間はあえて死を選ぶこともあります。絶望のあまり自死を選ぶという悲劇だけでなく、昨今では「拡大自殺」と呼ばれる事象も問題になっています。「死刑になるために殺人を犯す」人にとって、「生きている方が良いでしょう」という説得は力がありません。このような状態に陥ってしまうと、「永遠のいのち」という言葉さえ、祝福よりも拷問のように響いてしまうでしょう。ですから、死といのちを損得という観点から説いても、ある程度健康な精神状態の人でないと、受け取ることが難しいのです。結局、「永遠のいのち」を聖霊によって示していただかなければなりません。

 

また「奴隷」の例えだけでは、その奴隷本人のおかれた環境は分かっても、その奴隷の人格は見えません。ですから、罪の奴隷と義の奴隷とでは、その奴隷本人の中身も異なることを忘れてはなりません。そこでパウロは、

義の奴隷として「聖潔に進みなさい」と述べています。ここに「聖潔」とあるのは「聖別された」という意味の言葉です。いわゆる「きよさ」というキーワードがここに登場します。「義」とは「きよさ」に至るものだということです。以前、「義認」「聖化」「栄化」という用語について見ましたが、ここに「義認」と「聖化」が一体であることが示されています。6章のこの箇所では、この「きよさ」の中身については触れられていません。ただ、義の奴隷は「きよめられた」ものであるという原則が示されているだけです。そして、この「きよさ」も、人間的な言い方では語る事ができません。なぜなら、それはまさに「聖霊」に属することがらだからです。

 

とは言え、一般の人でもある程度の「きよさ」の観念は持っているでしょう。「きよさ」という言葉の意味は「他とは違う」「区別された」というものです。それで「聖別」という訳語を使うこともあります。日本でも、特に神社などは、俗界から区別された空間というイメージを維持しています。パウロ時代の同様で、エルサレム神殿は言うに及ばす、ギリシャの神殿も「特別な空間」と認識されていました。ユダヤでは、空間だけでなく時間も聖別されていて、安息日や例祭が守られていました。また、そのような共同体全体の「聖別」だけでなく、人々の日常でも様々な「きよめ」も行われていました。それは単に「ほこりを掃う」という精神衛生上の事柄というよりも、「聖別された民の一員としてふさわしい姿を維持する」という点が重要でした。(つまり、選ばれた民という意味です)。

 

このような前提の上で、パウロは「義とされた以上、神に聖別されているのだから、それにふさわしい生き方をせよ」と述べているのです。そこまでは、「人間的な仕方」でも理解できることです。しかし、その生き方がどのようなものなのかが肝心です。いったいパウロの言う聖別とは、何から区別された状態なのでしょうか。もちろん、罪から区別されているのは大前提です。そして、6章の中心テーマは、恵みの下にある私たちは罪から区別されているということですから、とにかく、キリストと共に新しい歩みをするのかどうかが問われています。その上で、改めて「罪と律法」の関係が問われることになり、それが7章で扱われます。

 

もう一点、「奴隷のたとえ」で足りないのは、「愛」の問題です。奴隷と主人との関係においては「愛」は主要なテーマではありません。しかし、私たちが罪を犯すのは、ある意味では罪を愛しているからです。罪の奴隷として、「いやでも罪を犯してしまう」というのは一面の真実ですが、それで人間が無罪放免になるわけではありません。人は罪を愛し罪を選ぶのです。反対に「義の奴隷」も、「義」に強制されたロボットになるのではなく、神と愛の関係に入るのです。それも、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださったのです。これが、人間的な言い方を超えた「神の真実」であり、すなわち福音に他なりません。そして、この福音のうちに神の義が啓示されており、私たちは恵みのうちに、この義に与るのです。それが「信仰」です。故に「主の御名を呼ぶ者はだれでも救われる」のです。