礼拝メッセージ要約
2024年1月28日 「教えの基準」
ローマ書6章
12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
ここまで、罪の奴隷である状態からの解放について読んできました。16節では、罪の奴隷の反対語として「従順の奴隷」という表現が使われています。また18節には「義の奴隷」という言葉もあります。当然、この両者は同じことを指していると考えられます。しかし、これは少々不思議な表現でもあります。罪の奴隷から自由になり神の奴隷になるという表現は、この後に出てきます。また、ローマ書冒頭にあるパウロの自己紹介にはキリスト・イエスの奴隷(しもべ)という言葉もあります。ですから、ここでの「従順」や「義」も、その文脈で理解する必要があります。
まず、その文脈を無視した理解(誤解)を見ます。罪とは不従順ですから、義とは従順であるのは当然です。問題は、この「従順」を私たちの行動と同一視することです。すなわち、従順を「特定の規則に従う人間の行動」とだけ考えてしまう危険です。これは言うまでもなく「律法主義」です。私たちには、何らかの形で律法が与えられています。それに違反することが罪であり、なぜか人はそのような違反をしてしまいます。それは罪に支配されているからです。さて、キリストが来られ、私たちに力を与えてくださいました。問題はそこからです。その力とは、以前は守れなかったルールが守れる力であるというのが、よくある理解です。この場合、「従順の奴隷」とは、結局「律法に忠実である」ということであり、義の奴隷とは律法の奴隷のことになってしまいます。この「常識的」な理解は、残念ながら文脈を無視した理解であると言わなければなりません。
なぜなら、14節にあるように、私たちが罪に支配されない(奴隷ではない)のは、私たちがもはや「律法の下にいない」(律法の支配下にない)からです。むしろ私たちは「恵み」の支配下にあるのです。罪の支配の反対は恵みの支配であって、従前の律法の支配下でも新しい律法の支配でもありません。ユダヤ教の支配下からキリスト教の支配下に移行したなどという話ではないのです。(もちろん、キリスト教という言葉が、神の恵みという実態を指し示すものであるならば正しいです。しかし普通は、様々な教義や儀式、規則や習慣によって成り立っている宗教形態を指しますから、それは一つの「律法」(世界観・価値観の基盤)であるに過ぎません)。
ですから、罪の支配下に無い私たちを支配するのは恵みであり、従順も義もそれと同義であることが重要です。一般に、従順は人間の行動、義は人間の状態、恵みは神の行為を指しますが、福音においては、それら三者はひとつの事態であり、その「事態」が私たちを支配しているのです。とすれば、この「事態」とはキリストの現実以外にあり得ません。要するに、パウロの自己紹介にある「キリストの奴隷」と同じことを言っているのです。そして、その「キリスト」に、私たちは「従順」と「義」と「恵み」を見ます。キリストは十字架の死にいたるまで御父に従順でした。それゆえキリストには全ての名にまさる名が与えられました。ただし、この「それゆえ」には注意が必要です。キリストがその従順の故に十字架にかかり、そこに栄光が現わされたのですが、それは同時に、キリストが呪いとされて私たちの罪を背負ったことでもありました。この「同時に」がポイントであることは以前学びました。ここに福音の本質があります。
そして、そこに「神の義」が現われたというのが、ローマ書冒頭からの主題でもあります。ですから、キリストは、その従順によって勇敢な義人であることを証明したという、単純な話ではありません。ここにあるのは、あくまで「神の義」です。キリストが私たちの罪を背負って神の裁きを受けたこと、すなわち十字架に神の義があるのです。この十字架の出来事を、人から見れば従順であり、神から言えば恵みです。その全体が神の義であり、この神の義が支配するのか、それとも人の義が支配するのかというのが最大のテーマに他なりません。ですから、私たちは罪(死を通して人類を支配している力)の奴隷から解放され、十字架のキリストにつながり、その「奴隷」となったのです。
この事態の結論として17節を読みます。その中で「伝えられた教えの基準に心から服従し」という部分が重要です。というのは、ここも文脈を無視して、律法主義として読むことができるからです。その場合(誤解ですが)、「伝えられた教えの基準」とは、教団や教会の教えや規則のことで、それを忠実に実行することが「義の奴隷」だということになります。まず、この節を注意深く読みます。直訳すると、「(あなたがたが)引き渡された教えの型に心から聞き従った」となります。「引き渡された」も「聞き従った」も、現在進行の状態ではなく、決定的に起こった出来事を指しています。この「教えの型」は珍しい表現ですが、実質的に「福音」を指すと考えられます。その福音は、私たちが自分から選んだものではなく、その中に私たちが引き渡されたという点が重要です。すなわち、私たちが福音を受け入れたのは、実は神のわざだったのです。因みに、新改訳は、教えの基準が私たちに伝えられたと、基準が主語(受け身)のような訳し方をしていますが、ここの主語は「あなたがた」(受け身)です。
この福音に神の義が啓示されているのですが、その義は私たちが経験する事実です。すなわち、キリストとつながるという出来事です。同時にそれは、私たちが聴き従うべき「言葉」でもあります。福音とは良い知らせという意味ですから当然です。体験とは聖霊によるのですから、福音とは聖霊とみことばがひとつになったものです。これは、ある意味では「言霊」に似ています。単なる情報としての言葉ではなく、見えないものを現実化するものが霊です。天地創造で神が語るとそれが「成った」とあるように、神のことばは神の御心を現実化するのです。ですから、福音とはキリストについての情報以上に、キリストの働きを、私たちが体験できるようにするものです。その「福音」を聞くことと、その「福音」に導き入れられることは神のわざですから、それは恵みに他なりません。
このように、福音とは神の恵みが支配することです。ですから「心から服従し」とは、その恵みに全人的に支配される事態を表しています。ただし、「服従し」であり、「服従させられた」ではないことも重要です。恵みの支配とは、私たちを無理やり屈服させようとする恐怖の支配ではありません。それはあくまでも「恵み」なのです。ですから、私たちにとって福音はあくまでも「良い知らせ」であり「喜びの訪れ」です。パウロもそうであるように、ある意味ではキリストとの遭遇は畏怖をもたらしますが、同時にそれは無限の喜びをもたらすのです。