礼拝メッセージ要約

2024114日 「罪の支配の終わり」

ローマ書6

 

12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。 

13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。 

14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。 

16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。 

17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、 

18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

 

義とされた私たちの歩みについてパウロは続けます。基本的には同じ内容の繰り返しなのですが、念には念を入れて、いろいろな表現で語ります。まず12節です。直訳すると、「罪(単数)が、支配し続けるな。あなたがたの死ぬべきからだ(ソーマ・単数)の中で。からだ(ソーマ・単数)の熱情のいいなりにならないために」というような文です。命令は、「罪が支配し続けるな」という部分です。この罪も単数ですから、いろいろな悪事はやめましょうというのではなく、死を通して人類を支配している「罪」の支配下で生きてはならないという意味です。罪に支配させてはいけないのですから、もちろんその主体は私たちです。しかし同時にそれは「罪」への命令であるという点も重要です。つまり、「罪」が私たちを支配するのか、逆に私たちが「罪」を支配する(乗り越える)のかということが問題なのです。「あの罪、この罪はやめましょう」ということではなく、ここでも「支配」がテーマとなっているのです。

 

「罪の支配」を許さない場所(領域)はどこなのかが次のポイントです。それは「死ぬべきからだ」とあります。「死ぬべき」とは、「寿命がある」という意味で、「有限」と言えます。そこに、特別否定的な内容を見る必要はないでしょう。「からだ」は、いわゆる肉体(精神と対立する意味での)ではなく、以前に学んだように霊肉全体を指すことばで、現代風には「システム」と言うことができます。ですから、死ぬべきからだとは、要するに、現実に存在している人間である私たちを指します。その私たちとは、有限のシステムなのです。そして、神によって義とされない場合、そのシステムは的が外れた状態で機能しているというのが、これまでパウロが述べてきたことです。その「的の外れた」機能は、十字架に与ることにより停止しました。ですから、今や全機能は正常状態にリセットされ起動したのです。しかし、その正常化されたシステムも「有限」であることがポイントです。それは、「どんな外部からの脅威にも影響を受けない無敵のシステム」というわけにはいかないのです。

 

機能が正常化されたというのは、完全無欠のシステムになったということではありません。コンピューターで例えるなら、設計者の意図に反して暴走していたシステムが、設計者の意図に沿う方向で機能するようになったということです。それは今も有限であり完成されたものでもありません。期間限定付きの更新を必要とするバージョンなのです。その限定バージョンである私たちは「罪」というウイルス攻撃にさらされています。私たちは、そのウイルスに感染しないように注意をし、もし感染してしまっても、それが増殖し発症することのないように排除しなければなりません。コンピューターの場合であれば、セキュリティソフトを導入しウイルスの侵入を防止し、それでも感染した場合は駆除することが必要なのと似ています。

 

この「罪に支配させること」は、別の味方をすると、「からだの熱情のいいなりになる」ことです。ここまでは、罪という外的から身を守るという視点が中心でしたが、ここでは、そのような「外的」な視点にたいして「内的」な視点がとられています。「からだ」とはもちろん私たちのからだのことです。その「熱情」が問題なのです。この「熱情」自体は特に悪い意味はありません(場合によって良くも悪くもなります)。内側から放出されるエネルギーに例えることができるでしょう。エネルギー自体は必要で、それがなければシステムは停止します。しかし、そのエネルギーの「言いなりになる」のは問題です。これは、コンピューターよりも原子力発電所の例えの方が分かりやすいでしょう。原発が機能しているとは、内部から発生した大量の熱エネルギーを使って発電機を動かしているということです。もし、原子炉の制御が失われ、大量の熱エネルギーが「勝手に」放出されるようになったら大惨事です(私たちはその大事故を知っています)。この暴走した熱エネルギーは原子炉自身を溶かし破壊しました。そして今も大量の水で冷却し続けなければなりません。私たちは、その熱エネルギーの支配から逃れることができないのです。

 

ですから、以上の外的視点と内的視点を組み合わせると、「ある原発がウイルスの侵入を許し、システムの機能が犯され、正常に原子炉を冷却できなくなった。そのため、熱が暴発的に拡がり、発電所全体が破壊されるようになった」という話になります。私たち人間は、規模は発電所より小さいですが、その仕組みははるかに複雑です。またコンピューター以上に、頻繁に更新を繰り返しながら生きています。それは肉体の細胞レベルの話だけではなく、心の状態においても然りです(全く同じ心理状態を繰り返すことはないという意味)。せっかく正常化していただいた自分というシステムに、そのような惨事を招いてはいけないのは当然のことでしょう。

 

13節の表現に従えば、そのような惨事を招くのは「自分の手足を不義の器として罪にささげる」ことによります。この「手足」は「からだの諸部分」という意味ですから「システムの諸パーツ」と言えます。「ささげる」とは「そばに立つ」という意味の言葉で、「差し出す」と訳せます。知らない間にウイルスが侵入するのではなく、システムの部分をウイルスに差し出すことによって侵入を許してしまうのです。主体は人間の側にあります。ただ、ウイルスと分かっているのに、わざわざ感染させるようなことをするでしょうか。わからないのであれば、知らない間に感染したことになるのではないでしょうか。これは大切な問題です。

 

まずは、「わざわざ感染させることがあるのか」という点です。実は、人はそのようなことがあるのです。自分自身に感染させる場合と、他人に感染させる場合があります。霊的な自殺と他殺です。霊的自殺といっても、霊的に完全に行き詰まり、自暴自棄になって自ら破滅に向かう場合は稀でしょう。それとは別に、自分の免疫を過大評価したり、あるいは、それを増強しようと、わざわざ自分を罪に感染させたりする人がいます。パウロが繰り返し述べている、「恵みの下にいるのだから罪を犯そう」という人たちのことです。また霊的他殺とは、そのようなことを自分だけではなく、他人にもさせようとすることです。いわゆる「人を躓かせる」ことで、厳しく戒められています。この「躓かせる」行為には、明らかな罪への誘いだけではなく、もっと微妙なケースがあるのですが、それについては14章で学びます。

 

他方、「知らずに感染してしまう」ケースも重要ですが、それも13章以下で学びます。この6章では、そのような詳細以前に、大前提として、「罪の支配にゆだねてはならないこと」、そして、「罪が支配する必然性はもはやないこと」を確認しています。それは、私たちが、キリストとつながり、新しい歩みが始まったからなのです。