礼拝メッセージ要約 2023年1月7日
ローマ書6章 「繰り返しと一新」
6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
今回も「キリストは死者の中からよみがえり、もはや死ぬことはない」という部分から読んでいきます。前回「復活」とは単なる「生き返り」や「輪廻」とは異なることを学びました。これは、キリストだけではなく私たちすべてに関わることがらです。今回は、「もはや死ぬことはない」ことの意義について学びます。
キリストが「もはや死ぬことはない」のは、単に死んで復活したからだけではなく「ただ一度罪に対して死なれた」からです。これについては、へブル書で「大祭司としてのキリスト」というテーマで詳細に論じられています。詳しいことはへブル書を参照していただきますが、ローマ書でも8章で取り上げられることなので、ここでも基本的なことを押さえておきましょう。
キリストについて「一度死なれ」「今生きておられ」「二度と死ぬことがない」と言われるのは、言い換えると「キリストの十字架の業は完結していて、繰り返される必要がない」ということです。ローマ書のこの箇所では、このことは当然の前提とされていて、特に強調されてはいません。むしろ、この前提を根拠として、私たちの歩みも一新されるものであることが語られています。つまり、私たちの歩みは、古い自分と新しい自分が何度も行ったり来たりするようなものあってはならないということです。「繰り返し」ではなく「一新」です。ですから、その土台である「キリストの十字架」も、「繰り返すことのないもの」であることを理解しておくことが必要です。
このことは、実践的にはどういうことなのでしょうか。「繰り返し」の世界とは「律法」の世界です。まず律法で規定された規則があります。人がそれに違反すると、違反に対する処置がなされます。社会的な制裁や、「きよめの儀式」、「生贄を捧げること」、「祭司によるとりなし」など宗教的なことが行われ、その度に違反行為の清算がなされるのです。この「違反」と「清算」は当然何度でも繰り返されます。逆に言えば、何度でも繰り返すことができるからこそ、律法は役にたつのであり、信頼することができるのです。言い換えると、人は何度でも罪を繰り返すというシビアな現実認識がまずあり、それに対処するためには、継続して運用できる安定的な法律体系が必要だということです。ただし、法律体系を安定的に運用するには、法律自体も現実に合わせて成長しなければなりません。そして、これはまさに現代の話です。政治資金規正法が出来たのも、政治家でも悪さをするという現実を認めたからですが、今度はその法律を回避する悪さをする人々が現れました。その結果、法律を改定しないと有効性が保たれないという現実があります。
このように、この世界は律法によって秩序が保たれているのであり、それが崩れた社会は悲惨です。ですから、ユダヤ人をはじめ、古代の人々が、この現実を神と人との関係にも適用したのは当然でした。しかし、このような「繰り返し」の世界は、人の国であり神の国ではありません。そして福音は神の国の到来を告げるものです。ですから、神の国に属する私たちは「繰り返し」ではなく「一新」の世界に住むように召されたのです。
「繰り返し」をキリスト教に適用するとこうなります。まず聖書や教派の教義から導きだされた「教会の規則」があります。それらに違反すると罪として認識されます。すると違反した人は違反に対処する「ささげもの」が要求されます。それが教会に対する行為である場合もありますが、まずは赦していただけるよう「とりなし」を求めるでしょう。カトリック教会であればそれがマリヤや聖人であるかもしれませんし、プロテスタントなら牧師や伝道師かもしれません。いずれにしても、それがキリスト教である以上、究極的には「とりなし」はキリストに向かうでしょう。そこから教派によって方法は変わります。カトリックであれば、ミサという「キリストの犠牲」が再現される形で罪の赦しを得ようとします。プロテスタントでは、犠牲の再現はなく、犠牲の想起がなされますが、もちろん「想起」しただけでは終わらず、その「想起」にふさわしい行動が求められます。そして、その行動とは結局「教会の規則」を守ることに帰っていきます。そして、そのようなことの繰り返しが、すなわち信徒の信仰生活ということになります。
このように、「繰り返し」の世界とはクリスチャンにとっても馴染みのある世界です。しかし、それだけでは結局「ユダヤ教のキリスト教バージョン」、すなわち「キリスト教の律法」の世界になってしまいます。私たちが簡単に律法主義に戻ってしまうのは、それが人間の国の規範であり、私たちにとって馴染みがあるからです。そして、それが無ければ物事が崩壊してしまうという不安もあるので、「律法とは別の救い」を受け入れることが難しいのです。しかし、福音はその難しいことが、神のわざによって現実化したことを告げます。そして、それは神のわざだからこそ、私たちにとっては、幼子でも可能なシンプルな出来事となったのです。
キリストの死(十字架の贖罪)は一度限りで完成したので、いかなる意味でも繰り返すことはありません。私たちがどんな苦行をしようとも、贖罪に関しては何の効果はありません。贖罪はすでになしとげられました。また、私たちがどんなに必死に祈ったとしても、その必死さのゆえに神があわれんでくださることはありません。神はすでに、キリストのいのちをささげるほどに私たちをあわれんでくださったのです。もちろん、このことは、私たちが苦しみを乗り越えて努力したり、必死に祈り続けたりすることを否定するものではありません。それらは、私たちの成長に必要なものです。成長とは「継続」です。しかし、人間の継続はそれがどんなに立派なものであっても救いに至らせることはできません。人から神に至る道はないのです。このことを私たちは肝に銘じなくてはなりません。神に至る道は神がすでに用意してくださったのです。私たちはただそれを受け取るだけです。
ですから「一新」の世界とは、神から受け取るだけの世界です。しかし、人から神にささげるものはあるのではないでしょうか。もちろん、動物の犠牲などはもはや無いとしても、賛美や良い行いなどはささげものなのではないでしょうか。もちろんそうです。そしてそれは12章以下で扱われます。しかし、そのような「良いもの」であるささげものも、もとはと言えば、すべて神からいただいたものです。ですから、ささげるというのは、神からいただいた膨大なもののなかから、ほんの一部をお返しするということに過ぎません。親から養育してもらい、さらにはお小遣いまでもらっている子どもが、親にちょっとしたプレゼントをするようなものです。もちろん、どんな小さなプレゼントでは親は大喜びするでしょう。プレゼントという物自体というよりも、子どもの成長が嬉しいのです。それでも、人間の場合は、子どもも一個の独立した人格ですから、子から親に「与える」という側面も否定はできません。しかし、神の人の関係においては、人が神から独立して何かを成し遂げるということはありません。良い行いすべては神が用意してくださるのです。