礼拝メッセージ要約 20231231

ローマ書6章  「復活について」

 

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。 

もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 

10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 

11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

 

ここまで私たちの「新しい歩み」について語ってきました。その「歩み」の根拠はキリストの復活です。そこで、改めてこの「復活」について重要な説明がなされます。まず、「キリストは死者の中からよみがえり、もはや死ぬことはない」という点です。「死者の中からよみがえり」という部分については、それが「終末的事態」のことであるとすでに学びました。今回は、「もはや死ぬことはない」という部分に注目します。

 

その第一の意味は明白です。「復活」は「生き返り(蘇生)」ではないということです。二度と死なないというのは、今とは本質的に異なる「いのち」を意味します。もちろん、それがどのような姿なのかは比喩的にしか語れません。パウロはこれについて、第一コリントの15章に詳しく論じていますから、そちらを参照してください。また、それはいわゆる「不死」(単純に死なないこと)とも違います。ウイルスやある種の生物の中には、事故によらなければ、いつまでも存続し続けるものもあります。人間でも、科学技術によって「不死」を求める探求が続いています。現在のところ、「不死」は無理でも「不老」に近づくことはできるのではないかと言われています。細胞の劣化防止やシステムの異常を修正することによってなされます。そのような「不死」ではなく、復活は、あくまでも「死者」の復活であり、死を回避する仕組みの構築とは異なります。

 

第二に「輪廻・転生」との関係も重要です。古代インドをはじめ西洋も含め世界中に「輪廻」の思想があります。その内容も多様ですが、単純化すると、「この私」は、現生以外に、別の形(他の人や動物の姿)で存在していたし、これから存在する」ということでしょう。言い換えると、「この私」は死と誕生を繰り返すというのです。より厳密に言うと、「この私」自体は不滅で、その形は死を超えて変化し続けるという考えです。「この私」自体が死によって完全に消滅してしまうなら、そもそも「別の姿」の存在は、「この私」とは関係のない、単なる「他者」に過ぎません。ですから、それは実質「霊魂不滅」の考えということになります。そして、「唯物論」は、まさにそのような不滅の霊魂を否定するものですから、当然「輪廻・転生」などはありません。

 

この前提を踏まえて「復活」を考えます。まず違いは単純です。輪廻・転生では死と誕生を繰りかえすのですが、「復活」では、一度死んでよみがえり、二度と死ぬことはありません。「もはや死ぬことはない」というパウロの言葉を受け入れるには、少なくともキリストにおいては「輪廻」はないということが大前提となります。今日でも「キリストの生まれ変わり」を自称する教祖は時々現れますが、福音の観点からは、そのような主張は当然受け入れられません。(ここで福音とは、パウロだけでなく新約聖書全体のメッセージです)。これも重要なことではありますが、それ以上に身近な問題は、「この私」の問題です。すなわち、輪廻では「この私」が死と誕生を繰り返すのですが、通俗的な「復活」の理解は、「この私」は一度生まれ、一度死に、二度目の誕生すなわち転生(復活)をする。そしてその後に死ぬことはない」というイメージでしょう。言い換えると、このような理解での復活は、一度限りの「転生」と変わらないということです。

 

そうすると、復活と輪廻の比較は「転生」が一度なのか複数なのかということになってしまいます。そして、そのような議論に結論など出るはずもありません。「一度で十分だ」という人と、「一度あるなら二度あってもいい」という人もいて水掛け論に終始します。しかし、どちらの立場もその根底には「霊魂不滅」すなわち「この私」は、姿は変わっても永続するという思想があることは明白です。ですから、ここでのポイントは、この「霊魂不滅」と復活との関係です。復活とは、不滅の霊魂が一度限りの転生をする話なのかどうかということです。

 

実はこれは、複雑で奥の深い問題です。単純化する人は大勢いますが、そもそも「生死」に関する話を単純化することなどできるわけがありません。聖書の記述ももちろん複雑です。ギリシャ思想の中には「霊魂は不滅」であり、それが有限の肉体に閉じ込められているという考えがありました。いわゆる「霊肉二元論」です。それに対してユダヤの中には「霊と肉」を一体のものとして捉え、全体として「からだ」と呼ぶ考えもあり、パウロもそのような意味で「からだ」という言葉を使っています。しかし、そのパウロにも、「この肉体を離れ(すなわち肉体は死に)、キリストと共にいる(すなわち霊魂は天に行く)という表現もあり、その場合、霊肉を分離しているとも言えます。また福音書には、「肉体だけでなく魂も滅ぼすことのできるお方」という言葉もあり、霊と肉を一旦は別々に考えつつも、生死については一体だという見方もあります。このような多様な理解が出てくるのは、そもそも「この私」をどう捉えるかによる(すなわち、「この私」とは霊魂なのか)という根本問題があるからなのですが、今それに立ち入ることはできません。

 

いずれにしても、この問題は複雑なのですが、肝心なことは、そのような「死生観」の問題と福音は別だということです。しばしばクリスチャンは特定の死生観を前提として福音を語り、その際に、まずその死生観を受け入れることを求めます。しかし、「死生観」は福音を伝える際の器・手段であり、それは「終末論」という世界観の場合と同じです。手段はあくまでも手段です。福音とは、聖霊の働きによって人がキリストとつながるという現実の知らせです。従って、それは「キリスト教の世界観・人生観」を広めるということとは異なります。今回の箇所で言えば、転生が複数あると考えている人に、転生は一度限りだという思想を吹き込むというような話ではないということです。あるいは、死んだら無になると信じている唯物論の人に霊魂は不滅だと説くということでもありません。死後についての思想が変わって、現生の生き方が変わるということも時にはありますが、その変わり方が良いものである保証はありません。死が終わりだからこそ現生を真面目に生きようとする人もいれば、霊魂不滅なので死を軽く見る人もいます。その人の「質」は、思想の枠組みだけでは決まらないのです。そして、神はその人の思想ではなく、その人そのもの「質」を評価されることを忘れてはなりません。

 

このように、「もはや死ぬことはなく」という言葉には深い背景がありますが、福音と立場から見ればある意味単純なことがらです。すなわち現に「主は生きておられる」ということです。キリストはいつでもどこでも生きて働いておられるので、私たちはどんな時も祈ることができます。キリストは死ぬことがないのはもちろん、眠ることもまどろむこともなく、私たちのためにとりなしをしていてくださいます。このあたりの消息は8章で詳しく語られることになりますが、6章ではその土台として、ここまでも「バプテスマ」すなわち、キリストと私たちの切り離すことができないつながりが述べられています。そのように「キリストとつながった者」として、私たちは賛美と祈りを捧げ、み言葉に耳を傾けていくのです。それが「神に対して生きている」者のありかたです。それはすでに現実ですが、私たちはそれを事あるごとに認め、その生き方を実践することが大切です。