礼拝メッセージ要約 20231224

 

イザヤ書7

14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

 

イザヤ書9

6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

 

 

今年もクリスマスがやって来ました。キリスト(の誕生)を祝うという趣旨ですが、だれかの誕生を祝うのは、その人の存在に感謝するということです。「キリストの存在」を祝うのは、2000年程前にイエス様がおられたという過去の出来事を祝うのではなく、「今ここに」おられるお方を祝うのです。イザヤ書では、7章に、「インマヌエル」と呼ばれる子どもが生まれるという言葉があります。「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」あるいは「私たちと共におられる神」という意味です。7章の記事だけを読むと、この「子ども」は、当時まもなく生まれてくる子のようなのですが、後にマタイはこれをイエス様のこととして引用しています。そして、今日では9章のこの箇所と結び付けて、キリスト誕生の預言として位置づけられています。すなわち、9章に描写されているお方の誕生が「神が私たちと共におられる」ことの現実化であるということです。ですから、クリスマスの意義とは、この「インマヌエル」を覚え、感謝をささげるところにあります。

 

ここで、この「クリスマス預言」について確認しましょう。預言者イザヤは、紀元(キリスト誕生)より700年程前にユダヤで活躍した預言者です。預言者とは、「神のことばを預かり語る人」のことで、占い師や未来の予測家とは違いますが、もちろん、未来の出来事を語ることもありました。ただし、予測自体よりも、予測を通して指し示されている「神の御心」を語ることが目的なので、マタイの引用もその意味で解釈することが必要です。ここでは、その問題には立ち入らず、9章の部分を読んでいきます。

 

まず6節です。ひとりの子どもが「私たち(のため)に」生まれ、男の子(息子)が「私たちに」与えられるとあります。この「私たち」がだれなのかが問題です。普通、子供はまずはその家族に与えられ、続いて社会の一員になるのですが、この言葉を語ったイザヤは誰をさしていたのでしょうか。それは言うまでもなく、彼の同胞ユダヤの人々でしょう。というのは、イザヤは、ユダヤ(ユダ王国)に試練の時が訪れ、やがてバビロニア帝国の捕囚となることと、後にバビロニア帝国から解放され、王国が回復することを預言していたからです。その大きな文脈の中で、イザヤは、この「子」について語っているのです。ですから、この「回復」にかかわる「子」について、とこしえの繁栄をもたらす「ダビデの王座」につく者と7節に述べられています。いわば、永遠のダビデ王国を確立する者が、この「子ども」なのです。

 

イザヤの預言のとおり、後にユダの民はバビロンから解放され、廃墟となっていた首都エルサレムも復興しました。神殿も立て直され、一時的にはユダ王国は復興したのです。しかし、知られているとおり、その王国は永続きせず、ギリシャ帝国やローマ帝国に支配され、紀元70年のユダヤ戦争後、ユダヤの民は全世界に離散してしまいました。イザヤの預言ははずれてしまったように見えます。確かに「預言」を「予見」としてだけ見るならばそうですが、神の御心を示すシンボルとしてならば、そうではありません。預言者エゼキエルも語ったように、ユダヤの民が「全世界から」帰ってくるという預言もあるように、離散と回復というパターン自体がテーマとなっており、そこに私たちは神の御心を見出す必要があるのです。

 

イエス様が来られた時も、弟子たちは彼がイスラエル王国を復興すると期待していました。しかし、復興どころが、イエス様は処刑されてしまいました。幸い、弟子たちは復活したイエス様に会うことができたので、すぐにでも復興がなされると期待しました。ところが、ユダヤの民はやがて全世界へ離散してしまったのですから、その失望は大きく、あらためて神の御心を求めることを余儀なくされたのです。今日私たちは、全世界に離散したユダヤ人の多くが、約束の地に帰還していることを知っています。そして、それが現代の大きな問題となっていることも周知の事実です。このいわゆる「シオニズム」運動に対して、ユダヤ人の中でも批判的な人がいるなど、問題は複雑を極めています。政治的な最適解を求めるのは不可能に近いと思われますが、私たちは、この問題を自分の聖書解釈を正当化するために利用するのではなく、聖書全体から考えなければなりません。

 

イザヤの預言に戻ります。その名は「不思議な(驚くべき)助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」とあります。「助言者(カウンセラー)」、「君(プリンス)」は普通の人間にも当てはまるでしょうが、「力ある神」「永遠の父」は人間離れしています。今回はここの部分にだけ注目します。人間の子どもが「力ある神」であるというのは、当然ユダヤ教ではあり得ません。ここで「神」と訳されているのは、天地創造の「エロヒーム」でもユダヤと契約を結んだ「ヤハウェ」でもなく一般的な「エル」であり、力強いエルは人間の支配者の比喩にも使われることがあることから、これを単に「超・偉大な者」と捉える人もいます。また「永遠の父」もアブラハムがイスラエルの父であるように、この子も永遠に名を残す「父祖」となるという理解もあります。それに対してキリスト教では通常、これは「子なる神」であるキリストを指すとされています。ただ、「永遠の父」がキリストだというのは、やや厳密さを欠くようにも思えます。

 

私たちはそのような神学的なことよりも、預言自体の存在に目を向けることが大切です。この預言は、前述のとおり、その前の「インマヌエル」預言とセットで、離散と回復という文脈の中で語られています。そして、この「子」を通して、神が私たちと共におられることを示しました。そして、そのことは当時(紀元前700年頃)だけでなく、今に至るまで続いているのです。言い換えると、神が私たちと共におられるのは、特定の「回復」の瞬間に限られることではありません。人情としては、離散時には神は私たちから離れ、回復時には共におられると感じるでしょう。実際、神が私たちに敵対しているように感じたり、味方であるように感じたりすることもあります。しかし、敵か味方かは、そのような「感じ」で決まるのではなく、事実関係によって決まります。事実とは、艱難の中にいる私たちに「神の子」がすでに与えられていること、そして、その子の支配は永続していて、艱難はやがて栄光へと変わることです。

 

神が支配する(神の国)というのは、神が高いところから私たちを見下ろし、命令を下していることではありません。神がその「子」を私たちに渡したということです。人間世界の話で言えば、ある意味、人質として最愛の子を渡したようなものです。このことが、神が私たちと共におられるという事実そのものです。そして、それは私たちの状況や世界情勢に関わりなく、「常に」事実なのです。しかし、神の子が私たちに与えられているからといて、万事がうまくいくわけではなりません。実際、まるで人質のようであった御子は、ローマの手に渡され十字架刑に処せられてしまいました。それがこの世の姿です。しかし、神はその十字架を通して、私たちに罪の赦しと解放を与えてくださいました。ですから、この世の浮き沈みを超えて、すべての根底には、常に「インマヌエル」という事実があるのです。そして、それこそが神の愛の現れです。このように「私たちと共におられる神」の愛から、私たちを引き離すことは不可能なのです。