礼拝メッセージ要約 20231217

ローマ書6章  「的外れのシステム」

 

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。 

もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 

10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 

11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

 

ここまで、バプテスマというキーワードを通して、私たちはキリストの死にあずかり、キリストと共に葬られ、キリストと共に新しい歩みをすることになったことを学びました。この重要なテーマに関して、パウロは同じ内容を別の表現で語り続けます。キリストの死にあずかることを、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」と表現しています。ここに「古い人」という言葉が登場します。この「古い人」は、当然「新しい人」との対比で語られるものです。単純化すると、十字架以前の私が「古い私」で、以後が「新しい私」ということです。私(ひとりの人)の中に古い部分(醜い部分)と新しい部分(きよい部分)があるということではありません。ここは重要なポイントなので確認する必要があります。ユダヤ教でも日本でも一般的には、人の心には良い部分と悪い部分があり、道徳や宗教によって、悪い部分を抑制し、良い部分を育むべきだと考えます。全面的に良い人も完全に悪い人もいないというのが常識的な判断であり、それは間違ってはいません。しかし、パウロは、そのような判断は表面的だと言うのです。

 

5章で読んだように、問題なのは個々の人間の出来不出来ではなく、人間を支配している力・原理です。例えば、足の速い人も遅い人もいますが、どちらも重力などの物理的な法則に逆らって走ることはできません。この力・原理という根本問題について、パウロは8章にかけて論じていくことになります。ここではその出発点として、この根本問題に関しては、「人間の改良」という道はないということを確認する必要があります。古い自分を改良して新しい自分になるというのは、根本問題の解決にはならないのです。古い人は、「十字架につけられる」、すなわち、ある意味では死ななければなりません。「○○は死ななきゃ治らない」という言説がありますが、もちろん、生きていて治らないものは死んでも治りません。ただ死んでも何の解決にならないのは当然です。必要なのは「キリストとともに十字架につけられる」ことです。

 

前節で、キリストの死に浸される(バプテスマされる)ことについて学びました。私たちはキリストの血(死)に浸されることによって、神の裁きは全うされ、私たちは義とされたのです。キリストとともに十字架につけられたというのも同じことです。この「十字架につけられた」ことと、「自分の十字架を負ってキリストについていく」ことを混同してはなりません。「十字架につけられた」は、1回限りすでに起こった事実で、「キリストについていく」のは、日々起こる進行中の出来事です。前者は、キリストとともに、すなわち、キリストの十字架に私たちもつけられたのに対して、後者は、「自分の」十字架を負うのです。自分の十字架は、自分の使命などを指すとしても、決してキリストの十字架に代わるものではありません。どんな崇高な使命も、あるいは激しい苦難も、その人を義とすることはできません。(ある程度の改良にはつながるかもしれませんが)。義とされるのはキリストの十字架にあずかることによるのであり、そのことは既に実現したのです。

 

この「十字架」により古い人は終わりました。それは「これからは罪の奴隷でなくなる」ためです。「〜のため」といってもそれは、遠い未来の目標ということではありません。「十字架にかけられた」も「奴隷でなくなる」も同じ「アオリスト」(確定的な出来事をさす)ものですから、原因と結果、行為とその目的のように一体の事柄です。ここでは「奴隷」という言葉がキーワードです。奴隷は、もちろん支配と対になる言葉です。「古い人」は罪の奴隷であったが、今や新しい人として奴隷ではなくなったということです。いわゆる「奴隷」は、主人の特別な好意でもない限り、死ぬまで奴隷をやめることはできません。まして、「罪」が主人であるならば、そのような好意などあり得ませんから、私たちは死ぬまで罪から解放されることはないのです。これももちろん比喩です。奴隷は死ねば解放されるといっても、死んでしまったら解放も何もあったものではありませんから。ポイントは、死んでしまうと、主人の支配が及ばなくなるということです。もちろん、この世では、墓を汚したり、悪評をたれ流したりして、死者を冒涜することもありますが、神のもとに召された人に力を及ぼすことはできません。

 

同様に、この世を支配している「罪」が私たちを「必然的に」支配することはありません。「必然的」とわざわざ言うのは理由がありますが、それについては、この章の後半で詳しく述べられます。ここで注目するのは「罪のからだ」と呼ばれているものです。キリストの十字架にあずかった者は、その「罪のからだ」が「滅ぼされる」とあります。まず、この「からだ」とは、別のところで言われている「肉」とは異なる単語です。「肉」は「血肉」にように単純に「肉体」を指すこともありますが、パウロはしばしば「生まれつきの罪深い性質」を意味しています。それに対して「からだ」自体には否定的な意味はありません。また、肉体ということでもありません。ギリシャ的には、肉体と精神を異なるものとして考えることが多いですが、ユダヤでは、それらを一体のものと見て、その全体を「からだ」と見る傾向があります。むしろ「有機体」のような感じでしょう。ちなみに「キリストのからだ」もその意味です。ただ「有機体」でもまだ物質だけのイメージがあるので、現代的に「システム」と呼ぶこともできるでしょう。その「システム」が全体的に機能している時に、それは「活きている」と呼べます。

 

ですから、「罪のからだ」とは、私たちが「的の外れたシステム」として機能している有様を指しています。そして、「滅びる」という言葉は「完全に役立たずになる」という意味ですから、そのような不良システムの機能が完全に停止したということです。全体の構図はこうなります。この世は「罪(単数形)」が死を通して人を支配していますが、それは、私たち自体が「不良システム」となっていることを通して実現しています。しかし今や、その不良システム自体が停止したので、「罪(単数形)」が力を発揮する機会が失われたのです。ここで注意する点は、「罪(単数形)」自体が消滅したわけではないということです。ですから「死」もまだ存続していて、最後に滅ぼされるべき敵なのです。もうひとつの点は、この不良システムの機能は停止しましたが、システムそのものが消滅したわけでもないということです。「システム」とは人間そのもののことですから、これは当然でしょう。あくまでも「的外れの機能」が停止したのです。ですから、その「機能停止」が続く限り、「罪(単数形)」が支配することはありません。「死んでしまった者は罪から解放されている」というのも、そのような意味です。

 

当然、この「機能停止」の実態がテーマとなるのですが、それはこの後で論じられます。その前に、もう一つ確認することがあります。それは6節最後の「私たちは知っています」という部分です。「キリストの十字架にあずかり、不良システムが機能停止した」という事実が述べられているだけでなく、それを「知っている」ことが重要なのです。というのは、私たちは「事実」をすべて知っているわけではなく、知って初めて有効になる事実もあるからです。キリストの十字架はすべての人のために起こった事実ですが、それを知らなければ潜在的なものに留まります。そして同様に「不良システムの機能停止」も私たちはしっかりと認識しなければならないのです。