礼拝メッセージ要約 20231210

ローマ6章 「いのちの新しさ」

 

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。 

絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。 

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 

 

これまで見て来たように、パウロが語る「バプテスマ」とは、キリストに「浸され、染められる」ことです。しかも、それは「キリストの死」に浸されることであり、「キリストと共に葬られること」でもあります。この事態を、5節では「キリストにつぎ合わされる」と表現しています。「つぎ合わされる」と言っても、ABが接着されるというイメージではなく、「ABの内にあり」「BAのうちにある」という、いわゆる「相互内在」の関係です。だからこそ、バプテスマ「浸される」という言葉が使われているのです。

 

4節と5節にその目的と結果が述べられています。まず目的を語る4節です。「私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため」であり、その根拠はキリストの復活です。キリストは「死者の中から」よみがえられました。この「死者」は複数形ですから、多くの死者たちの中からキリストが「初穂」として復活されたという意味です。この消息については、第一コリント15章に詳しく書かれています。そこでパウロはユダヤ的な世界観を前提に語っています。すなわち、まず「人々(人類全般または選ばれた人々)の復活」が当然の前提としてあります。そして。それが起こる「終末的事態」が、キリストの復活と共に始まったというものです。ですから、私たちは「復活」という言葉を、まずは「終末的事態」の事柄として理解しなければなりません。もちろん、この「終末」とは、いわゆる「世界の滅亡、消滅」ではなく、「現在の世界(罪と死が支配する世界)」が終わり、「新しい世界(神がいのちにあって支配する世界)」が始まる大転換という意味です。

 

この「終末」すなわり「大転換」は徹頭徹尾「神の出来事」ですから、パウロはそれを「御父の栄光」による出来事と言っています。神の国の到来は、究極的には「御父」の栄光の現れなのです。このことについても、コリント1524節から28節に詳しく書かれています。詳細は同書に譲りますが、要点は「復活は、最後の敵である死を滅ぼすこと」であり、それは「神が万物を御子(キリスト)に従わせること」なのです。しかも、その時には「御子もご自身を御父に従わせ」、最終的に「神(御父)が、すべてにおいてすべてとなられる」のです。このあたりの「終末時の栄光」については、ローマ書では8章で詳しく説明されることになります。6章のこの箇所のテーマは「私たちの今の歩み」ですから、まずは、その根拠としての「キリストの復活」を確認することに留めておきます。

 

このような「キリストの復活」が実現したのは、「私たちも、いのちにあって新しい歩みをするため」です。(因みに、キリストの復活も、新しい歩みも、「アオリスト」の動詞ですから、確固たる事実関係を表しています)。 この文は直訳すると、「いのちの新しさの中で歩む」です。単に「いのち」ではなく「いのちの新しさ」とある所が大事です。一口に「いのち」といっても、様々なニュアンスがあります、いずれにせよ、ここでの「いのち」は従来のものとは違う次元のいのちであり、「終末的」な内容を含んだものです。(終末的と言うのは、「今までになく、しかも後に変更されることもない」、すなわち「完成形」という意味です)。

 

この「新しい次元のいのち」とは何をさしているのかが問題です。実は、それこそがローマ書のテーマでもあるのです。大切なのは、「いのち」について抽象的に考えるのではなく、「新しい次元のいのちにある歩み」とあるように、「歩み」について理解することです。それは言うまでもなく、ローマ書でパウロがここまで論じてきた、「律法の下ではなく恵みの下にある歩み」です。このことは何度繰り返しても過ぎることがない重要なポイントです。私たちは「死と復活」を通して新しい次元に移されるのですが、それは、「律法違反の罰を受けて死に、生き返って律法の下でやり直す」ということではありません。それでは、古いいのちのやり直しになってしまいます。また「不真面目な人生を送ってきた人が、心を入れ替えて真面目に生きるようになる」という話と混同すべきではありません。真面目に生きるのは結構ですが、人はどこまでも「真面目に」罪を犯し続けることができるのです。人類は、真面目に、そして必死に、全力で戦争をするものです。それが、罪の支配ということです。この意味での「罪」は律法を利用し、死によって人々を支配しているのです。

 

この状況を単に「改善」する方法はなく、私たちは「死」を通してしか解放される道はありません。しかし、それだけでは、死は罪の当然の結果ですから救いはありません。ですから、私たちはキリストにつぎ合わされて「死ぬ」必要があるのです。それを通してのみ、私たちは「新しいいのち」に進むことができます。その「いのち」とは、もはや律法の下ではなく恵みの下にあるいのちです。この「新しい次元のいのち」は、すでに始まっています。そして、6章のそもそもの出だしは、「恵みの下にあるのだから、もっと罪を犯そう」という屁理屈を言う人々への反論でした。ですから、この「新しい次元のいのちにある歩み」とは、律法から解放されたにもかかわらず、あるいは律法から解放されたからこそ、罪を犯すことがなくなっていく歩みのことです。そして、それこそが福音であり、そして現実に可能であることをパウロは必至に伝えようとしているのです。

 

この「新しい次元のいのちにある歩み」は現在進行中ですが、同時にそれは「終末的(最終的)」な出来事です。この「最終的」というのは、もう更新されないということです。律法(ユダヤ教)が新しい律法(キリスト教)に更新されただけなら、それは、またさらに更新される可能性を否定できません。現に、イスラム教はそう主張していますし、現代にいたるまで、様々なキリスト教系新宗教が誕生しています。それに対してキリスト教側は、「新約聖書が最終なのだから、それ以後に書かれたものは無効だ」と主張します。しかし、もし「新約聖書」が単なる新しい律法であるならば、それがさらに新しい律法に更新される可能性を否定することができません。とこらが、福音は新しい律法ではなく律法の終わりなのです。ですから、福音を無視すれば「新しい律法(宗教)」は次々と生まれるでしょうが、それは「終末」ではありません。律法(宗教)の支配が終わるからこそ「終末」なのです。

 

この「終末的事態」は既に始まっているのですが完成はしていません。その完成の状態を指して、パウロは5節で「私たちもキリストの復活と同じようになる」と述べています。これは未来形ですから、新しい次元の歩みの完成を指しています。ここにも、常に登場する「すでに、いまだ」があります。この完成も、私たちが勝手に完成するのではなく、キリストにつぎ合わされている結果として、必然的に成就することです。繰り返しになりますが、この完成とは世界が終了するとか最終形で固定するという意味ではありません。律法が完全に終わることです。このように、すべては「キリストとつぎ合わされる」ことが原点です。その上で、現在の状況から未来への展望が語られます。ですから、私たちは、まずはこの原点に固く立つことが必要なのです。