礼拝メッセージ要約

2023123

ローマ書6章 「キリストと共に葬られたこと」

 

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。 

絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。 

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 

 

3節で、私たちはキリストの死に浸されたことを学びました。これがバプテスマの基本的な意味です。この「キリストの死にあずかるバプテスマ」の必然的な結果が4節に書いてあります。すなわち、私たちはキリストと共に葬られたということです。この「葬り」が今回のテーマです。宣教初期から「キリストは十字架で死に葬られた」と伝えられてきました。パウロもコリント書の中で、「最も重要なこととして受け、また伝えたこと」と、福音を要約していますが、そこに「葬られた」という一文が入っています。葬りが重要であることを示しています。

 

死ぬことと葬られることは当然セットです。しかし、葬り(埋葬)には、それ自体の意味があります。ここでは、二つの意味について考えます。第一は、死の完了を示すという意味です。「死」をどう捉えるかについては、今日に至るまで議論されています。「脳死」と「心臓死」の議論もあるように、肉体の死だけとっても、それが瞬時のことではなくプロセスであることが分かります。そして、葬儀が行われ、日本では火葬が続きます。肉体の死に平行して、その死を遺族が受容していく大切なプロセスです。そして、その完了を告げるのが埋葬で、大きな区切りとなります。日本とは違いユダヤではかなり短時間で埋葬しますが、その意味するところは似ています。キリストの十字架上の出来事はもちろん「死」ではありますが、葬られてようやく「完全な死」とみなされるのです。

 

これまで学んだように、キリストが十字架上で流された血が、私たちが義とされることの根拠なのですが、それでも古来、キリストの死を文字通り受け取らない人たちがいます。仮死状態だったに過ぎないとか、弟が替え玉として死んだとか、様々な主張がなされ、キリストの復活を否定しようとする人たちです。あるいは、キリストは人ではなく神か超人のような特殊な存在なので、死んだ(心臓は停止した)けれども、すぐに生き返ったという主張もあります。(復活は蘇生だという主張)。しかし、福音はキリストが正真正銘死んだことを告げます。すなわち、私たちの死とキリストの死が同じであり、だからこそ、私たちとキリストがつながることができるのです。このように、キリストは完全に死なれたことの証として葬られました。

 

では、私たちもキリストと共に葬られたというのは、どういうことでしょうか。もちろん物理的な話ではありません。しかし、ある意味では私たちの葬儀と埋葬は済んだのです。今日に至るまで、キリスト者が激しい迫害を受けている所では、信仰を持った家族には葬式を出すということも起こります。日本でそのような事はないかもしれませんが、目に見えない次元では、実際私たちの「死と埋葬」は行われたのです。今日の洗礼式の一つに「浸礼」というのがあり、そこでは信仰を持った人が仰向けで水に浸されるということが行われますが、これは「埋葬」の象徴として分かりやすい形です。ただし、それはあくまでも「象徴」であり本体ではありませんから、そのような形の洗礼式を行わなければならないわけではありません。どのよう形の「式」であっても、それが本体である「キリストとの結合」を指し示す限り意味があるのです。そして、「キリストとの結合」には「死と埋葬」が組み込まれています。この「埋葬」の位置づけについては6節以下でパウロは詳細について語ることになります。ここでは、まず「完全な死」を埋葬が表していることを確認しましょう。

 

続いて、キリストの埋葬が持つ第二の意味について考えます。イエス様はユダヤ側からは神を冒涜する者として、ローマ側からは反逆者として処刑されました。通常そのような重罪人は丁重に葬られることはなく、犯罪者用の共同墓地に捨てられたのです。しかし彼は不思議なことに、アリマタヤのヨセフという裕福な人に引き取られ、丁重に葬られました。これは、イザヤ539節が成就したことを表しています。「彼の墓は悪者どもと共に設けられ、彼は富む者とともに葬られた」とある通りです。言うまでもなくイザヤ53章の「主の僕べ」と呼ばれるこの箇所は、キリストの受難について様々な預言をしています。その中に「埋葬」の一文があるのです。この「悪者」と「富む者」が連結している所が福音のポイントとなります。

 

キリストの死は、殉教者の死ではなく、私たち人類の代表として罪を背負い、神の怒りを受けた「贖罪の死」でした。彼は正真正銘の「罪人」として死なれたのです。しかし、それは神のご計画によることであり、キリストは、この「罪人」としての死を引き受けたが故に、まさに正真正銘のキリストであることを証明したのです。十字架において、罪人の代表が栄光の神の御子であるという、究極の逆説が現れました。これが福音の根本です。これについては様々な表現がなされていますが、代表的なのはピリピ書にある「彼は十字架の死にまでも従われた故に、すべての名にまさる名が与えられた」という文です。ポイントは、この部分を時系列的に理解しないことです。時系列的というのはこうです。「キリストは無実であった」、続いて「十字架で罪人となった」、そして「三日後に復活し、神の子として現れた」というように、順番に事態が変化していったという理解です。

 

しかし福音が語っているのはそうではありません。キリストは十字架上で罪人の代表でしたが、「同時に」彼は神の子でした。マタイ福音書やマルコ福音書に、十字架上で息を引き取られたキリストを見た百人隊長が、「彼は神の子であった」と告白しました。またヨハネ福音書では、十字架上のキリストについて、その時すでに栄光を受けられたと端的に記されている通りです。これはもちろん矛盾であり逆説です。罪人が神の子であるという、絶対にありえない二つのものが一つとなっているのです。しかし、この逆説こそが福音の根本です。神が人を赦すというは、上に立つ者が、下の者の罪を大目に見るというようなことではありません。絶対的に相いれない、聖なる神の罪人がひとつにつながるということです。

 

しかし、そもそも人が「神のようになる」と思い上がったことが罪の出発点だったはずです。その「罪」が神と人を隔てているのです。しかし今やキリストがその罪を背負われました。それにより人の罪は取り去られました。それでは、キリストが背負った罪はどうなったのでしょうか。それはすべてキリストの死によって処理されたのです。しかも以上のようなプロセス全体が、司法取引のようなドライな計算によるのではなく、神の愛によるというのが福音です。自らに矛盾を引き受け、苦しみを全うされたキリストが、この愛の結晶なのです。

 

イザヤ書の預言の通り、罪人として処刑されたキリストは、富む者の手により、丁重に埋葬されました。ここにも、「罪人」と「神の子」がひとつとされる逆説が現れています。私たちは、この埋葬を通して、十字架上のキリストの真相を見ることができるのです。神の御子という真相です。