礼拝メッセージ要約

20231126日 「バプテスマ その3

ローマ書6章 第53

 

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。 

絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。 

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 

 

前回、パウロが「バプテスマ」と言う時に、当時の人々が何を考えたかについて学びました。それは国籍(宗教)の移動と新しい人生の始まりを意味していました。そして、その意味合いは福音に受け継がれています。このような前提で、あらためてパウロの言葉を読んでいきます。

 

まず3節です。「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たち」という表現があります。この「私たち」は、もちろん全てのクリスチャンのことです。「バプテスマを受けた」という訳はやや誤解を生みます。「バプテスマ」を洗礼式と理解し、「キリスト教に入信する儀式を受けた者」という印象を与えるからです。「バプテスマを受ける」というのは「浸される(特に、染料に浸され、染められる)」という意味です。従って、パウロは、「私たちはキリスト・イエスに中に浸され、染められた」と言っているのです。もちろん、キリストは液体ではありませんから、浸されるというのは比喩的な表現です。しかし、それは入信の「単なる」比喩ではありません。むしろ、霊的な現実を目に見える物を使って象徴的に語っているのですから、その象徴が示している先が大切なのです。

 

また、ここの「染められた」は「アオリスト」すなわち、決定的に起こった出来事を指しています。今も浸り続けているのではなく、一度完全に浸され、染め上げられたという意味です。また、今後も度々「浸されましょう」ということでもありません。まとめると、私たちは「キリスト・イエスに染め上げられた」のです。この非常に神秘的な象徴について掘り下げていくことが大切です。と言うのは、単純に「キリストにつながっている」という表現に置き換えることはできないからです。一般的に「キリストにつながる」というと二つの意味があります。一つは「キリストにつながった」と過去の事実と解して、「キリスト教に入信した」という意味にとります。もう一つは「キリストにつながっている」と現在進行の出来事を介して、「折に触れてキリストに祈り、礼拝をしている」という信仰生活のことを指します。しかし、決定的に染め上げられたというのは、それ以上のことを指しています。

 

パウロは、そこでこのバプテスマとは「キリストの死にあずかるバプテスマ」であると述べています。直訳すると「キリストの死へと浸され、染め上げられた」ということです。私たちは、今生きておられるキリストとつながっているのですが、その根底には「キリストの死」と私たちがつながっているという、重要な真理があります。これも、「キリストの十字架を標榜する宗教に入信した」というように単純化してはなりません。私たちは「現実に」キリストの死へ浸されたのです。しかし、キリストの死は二千年程前の出来事です。そこに私たちが浸されたというのはどういうことなのでしょうか。まさに、ここに福音の核心があります。まず「死に浸される」という象徴的な表現に注目します。ここでまず連想するのは「死」と「血」との関連です。聖書には「血染め」という恐ろしい言葉が登場します。血に染まったというのは、もちろん死に関連した出来事ですが、もっとも恐ろしいのは、イザヤ書631節から6節でしょう。そこには、神(ヤハウェ)ご自身が怒りを発し、悪人たちを踏みつけ、その返り血によって真っ赤に染まっているという描写があります。人間の罪の結果とは言え衝撃的なシーンです。このような、罪―怒りー血―死の連鎖は、他の箇所でもありますが、神ご自身が血に染まっているというのは尋常ではありません。

 

このことと十字架にはどのような関係があるでしょうか。パウロは十字架という歴史上の出来事について描写することはありませんが、私たちは福音書から「血に染められた」イエス様の姿を知ることができます。イザヤ書では神は人びとの血を浴びていたのですが、イエス様はご自身の血を流されました。一見対照的ですが、この血は神のさばきの結果という点で同じです。キリストは人々が受けるべき裁きを代わりに受けられました。そして、人々が流すはずだった血を、ご自身が流されたのです。この「血」についてパウロは5章ですでに触れています。「キリストの血によって義と認められた私たち」とある通りです。この「血」それ自体ではなく、「血に染められたキリスト」全体が問題なのです。それは人間から見れば、私たちに代わって、私たちの代表として神の怒りを受けたイエス様です。そして神の立場から言えば、神ご自身がその「キリストの血」を受けられたということです。ここに「血染めの神ヤハウェ」は「血染めのキリストの神」として現れました。そして、それこそが十字架の奥義であり、人類の救いの土台なのです。

 

ですから、キリストの死に染められるというのは、キリストの血に染められることなのですが、ここで注意が必要です。繰り返しになりますが、キリストの血自体を十字架の出来事から切り離し、何かそれ自体に魔術的な力がある物体のように捉えるという弊害が生じる可能性があるからです。カトリックには、ぶどう酒の実体がキリストの血に変化するという考えがあります。見た目は酒でも、それは血であり、それを飲むのです。(実際には一般信者が飲む機会は少ないようです)。プロテスタントでは、ぶどう酒の実体が血だとは言いませんが、目に見えない血を象徴しているものとして飲みます。また、讃美歌にもキリストの血の効力をたたえるものがあります。いずれにせよ、それが十字架の出来事全体を指し示すのならいいのですが、血自体を切り離すと魔術になってしまいます。パウロの語る「キリストの死」を理解するには、このことが前提となります。

 

このように、「キリストの死に浸された」とは、十字架上で流されたキリストの血と、私たちの罪とその罪に対する神のさばきを象徴する「血」が、ひとつであるという事実を表しています。私たちの罪とは、究極的には他者のいのち(血)を流すものです。そして、イザヤでは、それらの罪人を神が踏みつけ(裁き)、私たちの血が流されていたのですが、今やキリストが、ご自身の血をもって私たちを救ってくださったのです。キリストの血が私たちの血とつながったこと、それが、キリストの死に浸されたという事実に他なりません。そして、このような形でなければ、私たちとキリストがつながるということは不可能なのです。これが、いわゆる「十字架信仰」の実際です。この「十字架」抜きでキリストを信じる(つながる)ということはあり得ず、十字架抜きのキリストは想像上のキリストに過ぎません。世間には「万軍の主なる神」を賛美し、物体としての十字架をかざしてキリスト教の勝利を叫ぶ人たちがいますが、キリストの死に浸されることのない、十字架抜きのキリスト教は福音とは正反対なものです。私たちはどこまでも、十字架にかけられたキリストを信じ、自らの人生をそこに委ねるものなのです。