礼拝メッセージ要約
2023年11月19日 「バプテスマ その2」
ローマ書6章 第52回
1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
キーワードであるバプテスマについて学んでいきます。今日「バプテスマ」、あるいは「洗礼」について様々な理解があります。水のバプテスマと聖霊のバプテスマ、滴礼と侵礼、幼児洗礼と成人(あるいは自発的信仰告白者)の洗礼といったように、単に様々な種類があるだけではなく、対立する考え方や形があり、議論は尽きることがありません。そのため、まずは、パウロが「バプテスマ」という言葉を使う時に、当時それが何を意味していたのかを確認する必要があります。
第一にユダヤ人にとっての意味です。律法には様々な「水による清め」があります。その上で、特に異邦人がユダヤ教に改宗する時の清めとして「バプテスマ」が行われました。男性には割礼があり、さらに3名の証人立会いの下、信仰の告白に伴って水の中に全身を沈めるというものでした。完全に水に浸るために、手足の指先をひらひら動かすことまでしたそうです。そして、水から上がった時には、その人は全く新しい人(すなわちユダヤ人)となったのです。そのことを強調するために、改宗以前に子どもがいた人でも、改宗後に生まれた子を初子と見做すということさえあったようです。ですから、バプテスマを挟んで、以前は異邦人であり、以後はユダヤ人として、全く別の人間となったのです。これは、単なる国籍や宗教の変更ではなく、人間の質そのものの変化を表していました。
第二にギリシャ人(異邦人)にとっての意味です。ギリシャ世界には様々な宗教がありましたが、その中には密議宗教と分類されるものもあり、そこでも、秘儀に与る者は、古い自分に死んで新しい人として生まれると考えられていました。もちろん、それは単に「考えられた」だけでなく、新しい人間になったという、何某かの実感も伴っていたでしょう。実際、農耕を支配する気候の循環や、月の満ち欠けなどから、古代の人々は、神々の死と再生を想像してきました。そして、人間は秘儀に与ることによって死と再生を体験し、それらの神々と一体化することさえ出来るという宗教も生まれたのです。
以上のように、バプテスマは、ユダヤ的には異邦人からユダヤ人になること、すなわち、この世から神の国へ国籍が変わる通過点であり、ギリシャ的には死と再生、そして神に与ることの通過点でありました。バプテスマのもつこのような性質が、パウロの話にも引き継がれていることは明白でしょう。ただしそれは、パウロがユダヤやギリシャの宗教儀式を取り入れたという意味ではなく、福音を説明するために、彼らに馴染みのある出来事を引用しているということです。これは重要なポイントです。
まずユダヤ教との関係です。まずユダヤ教での、異邦人からユダヤ人への人種変更とそれに伴う異教からユダヤ教への宗教変更という事象は、外から観察できる外形的なものです。しかしパウロはそのような外形的な出来事を本質とは見ていません。2章で読んだように、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではないとまで言い切っているとおりです。そして、そこに福音の本質があります。他方、キリスト教世界には、人種変更は求められないものの、異教からキリスト教への改宗という事象はあります。そして、その通過点に、いわゆる洗礼があります。もしこれが、福音の本質から離れてしまうと、ユダヤ教の場合と同様の、外から観察できる外形的なものになってしまいます。バプテスマを介して異教からユダヤ教へ変更したからと言って、真に新しい人になったと言えないからこそ、パウロはユダヤ人の意味を再定義しました。ですから、同様に、バプテスマを介して異教からキリスト教に宗旨替えをしたからといって、真に新しい人となったとは限らないということです。御霊による心の割礼が真の割礼であるというが福音なのですから、御霊(聖霊)によらなければ、だれも新しい人にはならないのです。ヨハネ福音書でイエス様が「御霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることができない」と言われている通りです。
次にギリシャの秘儀宗教との関係です。そこでは、いわばバプテスマに類する「死と再生」の秘儀を行われ、それを通して「新しい人」が誕生するといわれます。このパターンが福音のバプテスマと類似しているのは明らかです。問題なのはパターンではなく、死と再生の意味です。特に再生が問題です。自然のサイクルから連想された神々の死と再生は、同じ形への「生きかえり」か、違う形への「生まれ変わり」へと導かれます。しかし「復活」はそれらとは根本的に異なります。それは、全く新しい次元への復活ですから、今の次元の言葉では分かりやすく説明することはできません。福音は、説明よりもむしろキリストの復活を告知します。キリストの復活は、出来事としては福音書に記されていますが、それは非常に不思議なもので、生き返りとは全く異なるのは明らかなのです。その後も昇天、再臨と話は続いていて、一言で語ることは不可能です。いずれにせよ、パウロはバプテスマをキリストの死と復活に関連させて語っていることが重要です。
さらに、時に秘儀宗教では神との一体化が語られます。いわゆる神秘主義のことで、様々な形をとります。創造者と被造物の混同は、いかなる意味でもあり得ない聖書の世界では神秘主義はしばしば異端とされます。確かに人が神になることは不可能なばかりか、そのような誘惑に負けたことが罪の原点です。そのため、絶対君主のような神の命令に服従するという形の宗教が発達したのは不思議ではありません。しかし、その「絶対神」信仰の中でパウロは別の神秘を語ります。いわゆる「キリスト神秘主義」と呼ばれるもので、キリストと人間の相互内在を説くものです。あるいは、キリストを頭(かしら)とし、私たちをその肢体とする「エクレシア(教会)」の神秘もあります。このような、私たちとキリストとの密接なつながりを、パウロはバプテスマという言葉を使って語っています。
以上のような、少なくとも三つの要素が「バプテスマ」という言葉の中にあります。そのような、当初のバプテスマは、次第に福音がキリスト教という一宗教に固定化し、制度化されるに従って、ユダヤ教のバプテスマのキリスト教版という、いわゆる入信の儀式となっていきました。その結果、キリスト教社会の一員と認められるための儀式となり、儀式自体も、そのやり方などが議論されるようになってしまったのです。パウロや新約聖書は、バプテスマの外形的な側面については特に語っていません。ただ、川などで行われた、バプテスマのヨハネ譲りの習慣が記録されているだけです。またパウロは福音を伝えることとバプテスマを授けることをはっきりと区別していました。彼自身、バプテスマを授けたのは数人だけであり、それでよかったと言っています。ですから、私たちもバプテスマ(水の洗礼)は、福音の語る「真のバプテスマ」を指し示すものとして受け取るのです。