礼拝メッセージ要約

20231112日 「バプテスマ その1」

ローマ書6章 第51

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。 

絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。 

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 

 

5章の最後でパウロは、「律法が入ってきたのは違反が増し加わるためです」と衝撃的な言葉を述べました。それは「罪が増し加わるところには、恵みも満ち溢れました」とあるように、焦点は恵みが満ち溢れる現実なのですが、このパウロの言葉は「反論」を招くことになります。1節にあるように、恵みを増やすために罪も増やそうという屁理屈を言う人が出来てきます。パウロはこの反論を、単に「屁理屈」で済ますことをせず、詳細に論じています。それが6章から7章なのですが、この箇所はローマ書の中でも最も神秘的で難解なので、丁寧に読んでいく必要があります。

 

この反論をただ屁理屈で済ませないのは、「信仰義認」の本質にかかわる部分があるからです。それで「反論」が実際どのような現実をもたらすのかを見なければなりません。少なくとも二つのポイントがあります。第一のポイントは、罪の「赦し」と「許し」を混同する過ちです。第二は、再び律法主義に陥ってしまう危険です。61節の「反論」は、神の恵みを「罪の許可」と意味しているという考えです。「罪の増加は恵みの増加をもたらし、恵みの増加は罪の許可の拡大をもたらす」という、罪と恵みの「スパイラル」を説いています。結果として、キリストの絶大な恵みがある以上、クリスチャンはどんな罪も許されるという誤った結論が導きだされます。これは個人レベルでは、自身の罪に対して向き合うことをしないクリスチャンを生み出し、集団レベルでは、キリスト教世界が自分を正当化し、他者に対する優越を主張するという過ちをもたらします。そして、このような事が日常茶飯事であることを見れば、パウロの言葉が重要であることは明らかでしょう。

 

このような主張に対してパウロは「絶対にそんなことはありません」と否定しています。しかし単なる否定は反対の問題、すなわち「再び律法主義に戻る」危険をもたらします。「クリスチャンは何をしても許される」という過ちから「クリスチャンならば、こうしなければならない」という束縛に移行する形です。これは「宣教」という言葉のもとで行われる布教活動でしばしば発生します。初めは、無条件で神に受け入れられると言って勧誘し、いざ教会員になると、様々な義務を課すというパターンです。悪意はないのでしょうが、良く言えば上手なセールス、悪く言えば詐欺のようなものです。もちろん、最初からクリスチャンの生活をすべて説明することは不可能ですからやむを得ない部分もあるでしょう。問題の本質は、信仰義認は入信のことで、それ以降の聖化は別(すなわちキリスト教会の律法を実践すること)だとしてしまうところにあります。ですから、信仰義認と聖化との関係が問われているのです。

 

以上のことを前提として、パウロの言葉を読んでいきます。まず2節です。「罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおもその中に生きていられるでしょう」とあります。「罪に対して死んだ私たち」とはどういう意味でしょうか。ここの「罪」は単数形で、個々の違反ではなく、人類を支配している力を指しています。問題は「死んだ」という部分です。これを一般的な「死」と結び付け、「死者は外部からの刺激に対して反応しないように、クリスチャンは罪に反応しない」と主張する人がいます。罪に反応しないというのが誘惑に反応しないという意味であるなら、クリスチャンは絶対に罪を犯さないということになりますから、事実に反する上に、そもそもパウロの議論自体も無駄になってしまいます。ここでの「死ぬ」とは、「死んで離れる」という意味の言葉です。ただ死ぬだけでなく、離れるというニュアンスが重要です。ですから、死の支配から離れたということになります。また、ここでの動詞は「アオリスト」形です。つまり、死んでいる(現在形)という状態(すなわち無反応)のことではなく、「死んだ」という瞬間的、普遍的なアクション(出来事)を意味します。

 

この出来事とは言うまでもなくキリストの十字架と、それに結びついた私たちの「死」を指しています。キリストの十字架に与ることによって、私たちが罪と死の支配から離れた(解放された)事実そのものを語っているのです。この「事実」についての説明がこの後に続いて語られるのですが、その詳細はどうであれ、まずは、「罪から離れる形での死」という事実に私たちは与っているということが出発点です。繰り返しになりますが、「罪に対して無反応になっている私たちの状態」を述べているのではなく、死によって罪から離されたという出来事を提示しているのです。罪から離れたのであれば、今更、罪の中で「生きていく」のは矛盾です。

 

「生きていけるでしょうか」すなわち「生きてはいけないでしょう」と訳されていますが、原語は単に「生きる」の未来形です。「罪に無反応なのだから、罪の中で生きることは不可能だ」と言っているのではありません。ここでの論点は、「罪から解放された死」という確定した事実と、その事実を土台とした今後の人生の歩みは当然つながっているではないかということです。つまり、信仰義認(すなわち十字架)という確定事実と、聖化の歩みはワンセットなのです。そもそも義認だけが目的なのではなく、聖化(わたしたちが神の子どもにふさわしい姿に変えられること)ことが目的であり大切なことです。聖化とは、私たちの観点からすれば、自分の状態が変化する出来事ですが、神の観点からすれば、「神の支配」が実効化するということです。それが「御国が来ますように」という主の祈りへの答えに他なりません。

 

それにしても、単に「罪から離れる」のではなく「罪から離れる死」とあるのは何故でしょうか。まさにそれこそが「福音」の本質なのです。「罪から離れで神のもとに帰る」というのが、いわゆる「悔い改め」と訳されている言葉の内容です。問題は、それが「律法を順守すること」と同義かということです。律法を順守するのは生きている人間のすることですから、それは死ではないでしょう。ただし、律法順守を厳しい修行として捉えると、それをある意味では、生まれつきの自分の死を見ることも可能です。そして、そのような修行を究めて、罪を犯さず律法を全うする人になることが、すなわち義人であるという視点もあり得ます。パウロ自身もその道を究めてきた一人でした。しかし、そのような律法による「肉(世俗的生き方)」の克服が義であるという考えこそ、まさにパウロが否定しているものなのです。

                                                                                                                                                                                                                                        

ですから、律法を真剣に捉えるなら、律法によって肉に死に、律法によって神に生きるという、ある意味では普通の宗教観もあり得るのですが、それでは、そこにキリストの十字架が入る余地がありません。しかし、そのような律法的、宗教的人生観は破綻しており、しかも、それこそがキリストを十字架にかけた元凶なのです。これを悟らされたからこそ、パウロは真の悔い改めに至り、キリストの僕(しもべ)となったのです。ですから、ここからパウロは、「私たちの死」と「キリストの死」が一体であることを述べることになるのですが、そのキーワードが「バプテスマ」です。このバプテスマについて、これから学んでいくことになります。