礼拝メッセージ要約
2023年11月5日 「アダムとキリスト〜5」
ローマ書5章 第50回
18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
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5章後半の結びの箇所に入ります。18節、19節は、ここまで述べられたことの繰り返しと確認です。アダムの違反とキリストの義の行為が対比され、それぞれに対応した罪に定められることと義と認められることが対比されています。同様の内容を、不従順と従順、罪人と義人という言葉で繰り返しています。その上で20節に衝撃的な言葉が書かれています。「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるため」だという言葉です。アダムとキリストの対比という文脈で再び律法という言葉が入ってきました。これは、どういうことでしょうか。
これまでも、パウロはユダヤ人によっては受け入れがたい「律法観」を述べてきました。律法は義をもたらさず、むしろ罪を自覚させるものだという律法観です。その前提の上で、律法によらない神の義という、福音の根本を
語ってきました。5章後半でも、律法は、罪を定義し、人々に自覚させるけれども、そもそも律法以前から罪はあり、死がそれを証明していると言われています。つまり、潜在的な罪を顕在化するのが律法だということです。無症状の感染者が、検査によって感染が判明するようなものです。これまでパウロは、このことをアブラハムを例にして、モーセ以前とモーセ以後という形(すなわちユダヤ人の文脈)で、律法以前と律法以後を語ってきましたが、5章では、アダムとキリストが対比されているのですから、もはやユダヤ人だけではなく、全人類に関することがらとして読まなくてはなりません。
従って、ここで改めて、全人類の文脈で「律法」という言葉を定義する必要があります。ユダヤ人にとってのモーセ律法は言うまでもなくユダヤ教という宗教ですから、まずは律法を宗教と言い換えることができるでしょう。ただし、宗教といっても中身は多様です。世界宗教から占い、個人の信条、さらにはカルト集団まで様々です。また、神学的、宗教学的な内容にいたっては、同じ宗教内でさえまとまらないほどです。そこで、宗教を最大公約数的に定義してみましょう。日本には「宗教法人」という制度があり、税制に優遇措置があります。それは、宗教に「公益性」があるからです。宗教以外にも公益性のある団体がありますから、宗教の特異性に注目します。それは、大雑把に言うと、「倫理の基盤を提供することによって、社会の維持、発展に寄与すること」と言えそうです。特に、前半の「倫理の基盤」という所がポイントです。それは言い換えると、その共同体によっての世界観のことです。その世界観に基づいて、政治、経済、福祉が行われることが期待されていて、それに反することを「悪」とみなすのです。モーセ律法は、それがかなり明文化されていますが、不文律も含めて、あらゆる共同体にそれは存在しているのであって、それが崩れれば、その共同体は内部から崩壊します。
もちろん、世間では、「宗教とは個人の心にやすらぎを与えるためにある」と言われています。しかし、心にやすらぎや喜びを与えるのは、何も宗教に限らず、芸術、エンタメ、スポーツその他いくらでもあるのですから、それは宗教の一面であるにすぎません。宗教が科学文明の現代でも強力に存在し続けているのは、その「世界観を提供している」からなのです。その意味で、「律法(宗教)は良いもの」であるばかりか、必要不可欠のものです。
では、その良いはずの宗教が入ってきて、なぜ罪が増し加わることになるのでしょうか。罪を顕在化し、その上でそれを処分し、減らすのではないでしょうか。理屈の上ではその通りです。そうなれば苦労はないでしょう。しかし、現実にそうはならないし、そうではない悲劇を私たちは日常的に見聞きし、体験しています。宗教は良いこともしますが、現に罪を増大化する役割も持っているという「現実」は、パウロの独創ではなく、だれの目にも明らかなものでしょう。それが何故なのかについては、7章などで詳しく論じられることになりますが、5章では、その現実が提示されているだけです。そして、ここではその仕組みについてではなく、「ある意味での目的」が書かれています。すなわち「罪が増し加わるため」ということです。「ある意味での」とわざわざ言うのは、本来、罪の増加そのものが神の目的であるかのような誤解を避けるためです。
それでもパウロがわざわざ誤解を招くような言い方をするのは、「罪の増加」自体がゴールではなく、その先に真の目的があるからです。すなわち、「恵みが増し加わる」ことであり、その恵みの支配により「永遠のいのちを得させる」という究極の目的があるのです。ここでまず把握しなければならないのは、罪の増加と恵みの増加が連動しているという点です。もしそうなら、パウロの言うように、罪の増加のために律法(宗教)があるというのも頷けます。ただし、この「連動」自体は容易に受け入れられるものではないでしょう。というのは、一般に、罪が増加している現実は、恵みが欠如しているからだと考えられるからです。逆に、罪の増加が恵みだと思う人とは、一般的には罪が増えて嬉しい人のことでしょうから、それはそれこそ悪人のことでしょう。実際、この問題について、パウロは5章に続く6章で詳しく論じることになります。パウロが語っているのは、そのような悪人ではないのは勿論のことです。
そこでポイントとなるのは「恵み」の意味です。まず、それは「罪を見逃してもらえる」という意味ではありません。律法が入ってきたのは罪を見逃さないためなのですから。それにもかかわらず、恵みは罪の赦しを土台としています。とすれば答えは明白です。律法(宗教)によって罪が増加するが、それにも打ち勝つほどの赦しがキリストによってもたらされるという、福音の強さ、大きさ、そして普遍性を述べているということです。そして、その福音こそが目的なのです。ここからわかるのは、罪の赦しとは、神が罪について見て見ぬふりをするというのではなく、罪が神の前だけでなく罪人本人にも明らかにされた上で、それをすべて背負ってくださったキリストを私たちが信頼することなのです。パウロのメッセージの中心は徹頭徹尾「十字架のキリスト」であり、その恵みの大きさです。恵みが支配するというのは、そういう意味です。その観点からあらためて振り返った時に、恵みの支配は増大する罪に勝り、罪の増大は宗教と暗黒面とつながっていることが見えてくるのです。
そして、このようなプロセスを通った先に、初めて「永遠のいのち」の世界が開けてきます。逆に言うと、このプロセス抜きの「永遠のいのち」は、本当の永遠のいのちではなく、単なる「永生」(ただ生き続けていること)に過ぎません。しかも増大する罪と宗教の圧政とのイタチごっこが永遠に続くという、まさに地獄のような世界となってしまいます。善悪の知識の木の実を食べ、律法を勝手に内在化した人類は、宗教的な存在となりましたが、それは神から離反の結果でもありました。その状態のまま「いのちの木の実」を食べてしまったら、罪の中の永生という地獄が展開されてしまいます。そのため神はアダムとエバをエデンから追放し、死をもたらしましたが、それは、死が罪によって支配する世界にキリストが来られ、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためだったのです。