礼拝メッセージ要約

20231029日 「天の国籍(墓前礼拝にて)」

 

ピリピ人への手紙3

 

17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。 

18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。 

19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 

21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 

 

私たちの国籍は天にあります。ですから、既に天に召された人も地上にいる私たちも同じ国に属しています。ここで「国籍」と訳されている言葉は、「政府の行政」というような意味です。そこから、行政圏に属している人々のことも意味することから「市民」をも表します。すなわち、これは、神の支配(国)に属している人々を指していることになります。今ローマ書で「支配」について学んでいますが、ピリピでも結局同じことが語られているわけです。

 

「神の支配圏」ですから、必ずしも一般的な「天国」のことだけを指しているのではありません。パウロがここで問題としているのは、「地」すなわちこの世の有様と「天」すなわち神の国の有様の違いです。この世の有様といっても、漠然と「世間」を指しているのではなく、18節にあるように、「十字架の敵」として歩んでいる多くの人々を念頭に置いているのです。彼らが具体的にだれであったのかはわかりませんが、自身の欲を神とし、彼らの栄光が神の前では恥であるような人々です。欲望の最大化とその満足を最高の栄誉と考える人々と言えるでしょう。

 

これは何も特別な人のことだけの話ではありません。むしろ今日の経済活動の基本です。商売では、単に既存のニーズに応えるだけではだめで、新たなニーズを創出しなければなりません。すなわち消費者の欲を喚起することが事業者側の成長のために必要であり、それは事業者のさらなる成長への欲を強化します。注意したいのは、「欲望」と訳されている言葉です。直訳は「腹」で、腹部にあるすべてを指しています(消化器官や子宮も含みます)。そして、ユダヤ的な用法では、人の最深部を表していて、心とも訳せる言葉なのです。ですから、人の内面から外部に物事が立ち現れてくる母体のことだと言えます。単に悪い意味での欲だけを指しているのではないという点が重要です。ですから、これは、「生産と消費の飽くなき拡大」を至高価値とする現代文明そのものに他なりません。

 

もちろん、今日ではこのような拡大主義の限界が認識され、SDGsが求められているのは周知の事です。これは非常に大切なことですが、一部の環境活動家がテロ的な行動を起こす等、その隠れた動機が何なのかも問われる必要があります。いずれにしても、人間に内在しているものが絶対視されれば、理想の名のもとに欲望が暴走することは避けられないのです。これらのことを、神の支配に敵対する人の支配と呼びます。そして、今や私たちは、そのような人の支配から解放され、神の支配のもとに移されたのです。

 

ですから、天に国籍があるというのは、まずは、この地上での歩みが神の支配の中にあるという意味です。しかし、そのような神の支配は、地上の現実世界においては途上にあり、その完成は未来のことです。したがって、私たち一人ひとりにとっても、現在の歩みと共に未来への展望が大切になってきます。そして、しばしば現在の歩みには苦難が伴います。というのは、神の支配下において歩む時に、人の支配、すなわち欲望を原理とするこの世の仕組みとぶつかることになるからです。ローマ書で学んでいるように、人の支配する世界は、実際には罪と死に支配されている世界でもあります。その世界の中で、私たちも葛藤は避けられません。そして、罪の赦しは恵みによって受けながらも、この肉体は死ぬ定めにあります。私たちの救いは、まだ途上にあるのです。

 

肉体は滅びます。しかし、それは肉体に価値がないということではありません。肉体もまた神の創造物です。そして、単なる霊魂の入れ物ではないのです。パウロが「卑しいからだ」という時、それは神の創造が卑しいのではなく、罪の死の世界に置かれている現状が「卑しい」という意味です。そして、それが最終形態でないのは言うまでもありません。天に属しているならば、肉体もまた天にふさわしいものへと変えられる必要があります。肉体も霊魂も合わせて人なのであり、人として神の創造の目的にそったものとされるのです。

 

この世も肉体の維持、改善を目指し、それと内なる欲望も一体となっています。肉体の改善を求めること自体が悪なのではなく、肉体を霊魂と切り離し、単なる欲望の道具あるいは対象としてしまうことが悪なのです。私たちもまた肉体の救いを求めますが、それは天にふさわしいものと変えられという望みです。そして、そのように変えられた「からだ」、栄化されたからだとも呼びますが、それが復活のからだであり、実にその先駆者としてキリストは復活されました。キリストは今、天におられます。すなわち目に見えない霊的なかたちでのみ地上におられますが、やがて時が満ちると天地はひとつとなり、キリストは栄光ある姿の全貌を現わされます。そして、それは私たちの体もまた復活し、栄化される時でもあるのです。その時、神の支配は肉体も含めたすべての被造物に及びます。

 

ただし、その暁には、復活のからだを、もはや肉体と呼ぶのはふさわしくないでしょう。肉体というと、どうしても今の姿しか連想できませんから。この「復活のからだ」は、現在あるものを使って描写することはできませんから、パウロは単に「霊のからだ」と呼んでいます。単なる霊ではなく霊のからだであるところがポイントです。そして、私たちはそれを理論としてではなく、この限られた肉体の中でうめきながら切望しています。地上にいる者も、すでに地上を去った者も、このことについては同じ立場にいます。これこそが、天に国籍を持つ者すべてにとって、慰めであり希望なのです。