礼拝メッセージ要約

20231022日 「アダムとキリスト〜4

ローマ書5章 第49

 

12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。 

13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。 

14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。 

15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。 

16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。 

17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

 

 

アダムとキリストとの対比から、15節と17節に、ある結論が導かれます。まず15節です。アダムの違反に対して神の恵みが語られるのですが、注目するのは、神の恵みと並んでキリストの恵みによる賜物が満ち溢れるとされている点です。(直訳すると「キリストの恵みにおける賜物」です)。「神の恵み」と「キリストの恵み」は別のものではありません。ただ、神の恵みというと、やや一般的で広い解釈が可能ですが、それが「キリストの恵み」という、より具体的な形で示されたということです。そして、その具体的な中身の実質が「賜物」という言葉で表現されています。ですから、当然その「賜物」とは何なのかということが問題となります。

 

結論を先取りすると、神の究極の賜物は聖霊であり、今後「聖霊」が話の中心となるのですが、今のところは聖霊について触れず、基本的なことを確認しています。まず16節にあるように、「恵み」と「賜物」は同じことを指しています。これは、言葉の意味から当然のことでしょう。そして17節では「恵み」と「義の賜物」がセットで語られています。神の恵みは無限ですが、その中心に「義」があるというのが、パウロがここまで力説してきたことです。罪人がキリストの十字架という神の業の故に義とされるという「福音」が神の溢れる恵みです。これを「義の賜物」という一言で表現しています。この「賜物」が「ひとりの人」キリストによって満ちあふれるのです。なお、日本語では「あふれる」と普通の現在形で継続している一般的事実のように訳されていますが、原文は「アオリスト」という、瞬間的、決定的出来事を表す言葉になっています。つまり、人間の視点からは、人々に対して順に実現しているように見える出来事も、神の視点からは、キリストの十字架によって、既に決定的に実現しているものなのです。歴史を超越した「客観的な」神の出来事と言うこともできるでしょう。

 

17節も同じことを繰り返しているようですが、実は重要な違いがあります。ここでは、アダムの違反によって死が支配したことに対して、「いのち」が支配するとは言わず、「恵みと義の賜物を受けた人々」が支配すると言われています。「死が支配した」の部分も「アオリスト」で、前節の「多くの人が死んだ」自体を「死の支配」という言葉で具体化しています。「死の支配」は「神の支配」に対抗できるようなものではありません。しかし、人間の歴史的の中で起こることがらを「決定的な出来事」と見ているという意味では似ています。つまり「客観的な事実」です。重要なのは、この事実と対比されているのが「人々による支配」となっている点です。ちなみに、こちらは未来形なので、「支配するようになる」と訳せます。聖書の中心テーマは「神の支配」なのに、なぜここでは「人々の支配」が登場するのでしょうか。

 

その鍵が15節から17節への流れです。まず「神の恵み」という決定的、客観的現実があります。その現実の前で人にできる事と言えば、ただその恵みを受けるだけです。そこに人の業が関与する余地はありません。いわば完全に「他力」(神の業)」です。パウロは、ここにいたるまでで、この「他力」を力説してきました。それに対して、17節で「人々が支配する」というのは、ある意味では「自力」です。そこでは人々は単なる神の道具ではなく、支配する主体です。この部分だけ取り出すと、ユダヤ教のある側面を想起することになります。すなわち、イスラエルが律法によって神の国(支配)となり、やがてそれが世界中に広がるというビジョンです。その暁には、世界中から人々がエルサレムに詣でるという預言もあります。これを字義通りに読めば、結局ユダヤ中心、律法中心主義にいきつきます。そして、それこそまさにパウロがローマ書で否定しているものなのです。

 

否定といっても、預言の存在そのものを否定しているのではなく、その機械的、表面的な解釈を否定しているのであり、それを理解しない人々が執拗にパウロを民族と宗教の裏切者と見做してきました。それでは、パウロにおいて、人が支配するというのはどういう意味なのでしょうか。当然それは、人が他人の上に権力をふるうということではありません。政治的にせよ宗教的にせよあり得ないことです。問題はもっと深い所にあり、それが今後のローマ書のテーマともなっていて、5章の段階では単に提示されているだけです。ここでは、この問題の前提となる事柄について整理しておきましょう。それは「他力」と「自力」の関係です。

 

世間には、神仏に頼るのを他力、人間の自助努力によるのが自力であるという理解(誤解)があります。しかし、もちろん問題はそんなに単純ではありません。幸いなことに、日本では古来、この問題は深く追及されてきました。というのは、元来自力の宗教とみなされる仏教の中に他力の宗派があり、単純化すると自力の禅、他力の浄土系という両者が発展してきたからです。その中で両者の対話や関係を探る動きが深められてきました。そして、自力と他力は単に対立するのではなく、両者が成立する根源が求められてきたのです。単純化すると、他力に基づかない自力はなく、自力に至らない他力は無意味だというような理解です。しかし、これを単に頭で理解するだけでは意味がないことは言うまでもありません。

 

パウロは神の恵みという絶対的な他力の福音を伝えています。それは、まず私たちが罪人の頭であり、ただ恵みの中で神のしもべ(奴隷)となる以外に救いはないということです。しかし同時に、この「奴隷」は神に愛されている「子ども」でもあるという重要な事実があります。この「子ども」という側面から見れば、私たちは神の業を「行う者」です。それも意志のない機械として行うのではなく、神の恵みに応答する自らの行為として行うのです。このあたりの消息が、次の6章のテーマとなります。

 

17節に戻ります。死の支配は、私たちに対する支配です。それと対比されている「人々がいのちにあって支配する」のも、当然私たち自身に対するものです。死はある意味では外部から不可抗力的に迫ってきます。それに対して、恵みはどうでしょうか。もちろん、それも神という外部から与えられるものです。しかしポイントは、恵みの支配は必ずしも不可抗力的なもの(つまり単なる力)ではないということです。5章の最初の部分で、私たちは「恵みの場」に立っていることを学びました。「いのちにあって」というのも同じことを指しています。この場にあって私たちは神との「シャローム」すなわち豊かな交流を持っています。それが「生きている」ということです。この「生きている」ことが、罪と死の支配に打ち勝つのです。私たちは「他力」によって生かされており、生きている私たちが支配しているということです。