礼拝メッセージ要約

20231015日 「アダムとキリスト〜3

ローマ書5章 第48

 

12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。 

13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。 

14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。 

15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。 

16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。 

17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

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「罪の支配」という現実が提示されました。パウロは、ここではその詳細を説明することはせず、ただちに「別の支配」との対比に入ります。すなわちキリストの支配との対比です。この「対比」については、慎重に読んでいく必要があります。パウロに限らず、ユダヤでの「対比」にはいろいろな種類がありますが、ここで使われているのは、「Aが何々であるならば、Bはなおさら何々である」という形のものです。これは福音書でもしばしばイエス様の言葉に登場します。このような「対比」に入る前に、より身近な対比を取り上げましょう。それは、正反対のものを対比させるというやり方です。

 

このやり方を今回のテーマ(支配)に適用すると、次のような話が展開されます。まず「死」が外から支配しているのですが、その死を用いて支配している者がいます。すなわちサタンです。そこに、サタンよりも強力な存在であるキリストが来られました。そして今や「死」よりも強力な「いのち」が支配するようになりました。以上のことそのものは聖書に書いてあることです。そして、それは「勝利のキリスト論」と呼ばれる形で展開していきます。宇宙は善と悪がぶつかる戦場であり、サタン率いる悪がのさばっていましたが、今や復活のキリストによって善が勝利します。その結果、サタンの奴隷であった私たちは解放され、永遠のいのちを得ることができるのです。ここでの対比は、死によるサタンの支配と、いのちによるキリストの支配です。この理解は「大枠としては」正しいものです。しかし、注意をしないと、まるで善と悪の宇宙大戦争のようなイメージしか持てなくなってしまいます。また、人間が超自然的存在の下で、どんな役割があるのか曖昧です。さらに危険なのは、このサタンとキリストの対立を、この世の諸勢力に安易に持ち込み、自分を善(キリスト側)、相手を悪(サタン側)と勝手に決めつけてしまうことです。

 

このような誤りに注意した上で、パウロのテキストを読んでいきましょう。パウロはアダムとキリストを対比する上で、まず、15節にあるように、「恵み」と「違反」を対比させています。もちろん、キリストの恵みとアダムの違反についてです。まずアダム(ひとり)の違反によって多くの人が死んだとありますが、この「多く」は実質「すべて」を意味します(死なない人はいないのですから)。「違反」でさえそうなのであれば、なおさら、神の恵みとキリストの恵みの賜物は多くの人々に満ち溢れるというのが、ここでのメッセージです。これは、どのような対比なのでしょうか。まず、アダムとキリストは、どちらも「ひとりの人」という点では同じです。また、多くの人(実質的にはすべての人)が対象となっている点でも同じです。違うのは当然「違反」と「恵み」です。それならば、「違反」はこうで、「恵み」は正反対であるという、例の対比をすれば良いのではないでしょうか。

 

しかし、パウロはそうではなく、「違う点がある」と言いつつ、ひとりの人という原点と全ての人という対象を取り上げるのですが、それは違反と恵みに共通なのです。ですから、私たちはここから「反対物の対比」ではない読み方をしなければなりません。(違反と恵みそのものが反対なのは当然ですが)。まず、パウロは、違反と恵みについて、第三者の観点から比較しているのではないという点が重要です。むしろ当事者として、現にある状態から出発しています。それは、恵みが満ち溢れているという現実です。キリストに敵対していた自分がキリストに受け入れられ、死からいのちへ移されたという現実がまずあります。その上で、この溢れる恵みが、さていったい自分だけのものなのか、それとも他の人にも与えられるのか、与えられるとするなら、どこまでの人なのかという問が生まれます。その時に、自分が罪人であったという事実は、自分だけのことではなく、アダムの子孫の故でもあるということに気づきます。それは、「違反(複数)」から「罪(単数)」へと理解が深まった結果です。それで、アダムとキリストが対比されることになったのです。

 

ここで重要なのは「罪(単数)」の絶大な影響力、すなわち「支配」です。この「罪」は、たった一人のアダムを通して全人類を支配するようになりました。私たちは近年、たったひとつの新型ウイルスが世界を大混乱に巻き込んだことを経験していますが、それにもまして、「罪」は「死」を通して全人類を支配しているのです。しかし、ポイントは、そのような強力な罪であっても、それにも勝る「強力」なものがあります。それを、パウロは実体験として知ったのでした。神に敵対していた彼自身がキリストのしもべとされたのです。そして罪が普遍的なものであるならば、それを上回る恵みが普遍的であるのは当然のことです。パウロ固有の違反をとおして、普遍的な罪が顕在化したとすれば、それを上回る恵みは、なおさらのことアダムを上回るキリストによって顕在化したのです。

 

それにしても、アダムが初めの「ひとり」であるのは当然として、なぜキリスト(歴史上はナザレのイエスという一人の男)が第二の「ひとり」であると言えるのでしょうか。当然、第三者的な観察では不可能です。この認識の根底には、パウロが自身を「罪人の頭」であることの悟りがあります。その彼を救ったのがキリストです。それでも批判は出るでしょう。「罪人の頭というのはパウロの個人的な感想に過ぎない。もっと酷い罪人もいるだろうから、そんな者をキリストが救うはずはない」という批判です。このような批判は、パウロに限らずいつでもあります。キリストの救いは限定的・主観的であるという批判です。そうであるならば、福音の話はここで終わりです。そうではないことを述べるために、パウロは「ひとりの人」を提示しているのです。

 

パウロの個人的な違反が普遍的なアダムの「罪」の現れてあるならば、その罪を上回るキリストの恵みもまた普遍的なものであるという、対比というよりも共通点がまずあります。ただし、その構図は共通であっても、内容は異なります。パウロはここまでも「恵み」についていろいろと述べてきましたし、ここからさらに深められます。その前提として、アダムとキリストの対比が、中身の違いだけではなく、構図としての共通点があることを知る必要があります。「ひとり」という単独と「全て」という普遍は、絶対的に相反するものでありながら、罪と恵みという現実を通して、ひとつに結びついているのです。自分のいう一人に起こったことは、その根底に、すべての主であるお方がおられます。罪も恵みも普遍ですが、勝利するのは恵みです。だからこそ、「主の御名を呼ぶ者は、皆救われる」のです。