礼拝メッセージ要約
2023年10月8日 「アダムとキリスト〜2」
ローマ書5章 第47回
12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
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アダムについての基本的な理解を前提として、パウロの本文を読んでいきます。まず12節で、これまでの議論を「そういうわけで」と受けつぎます。そして、同じテーマを新たな視点から語り始めます。それは、全人類に関わる事柄を「ひとりの人」と関連付けて理解するという視点です。3章の「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリストイエスによる贖いのゆえに、値無しに義と認められるのです」で、すでにパウロは全人類の問題として語っています。それは、律法を超えた信仰に基づく立場ですが、あらためて「ひとりの人」から全人類のことを語っていきます。もちろん、今後も「律法」の話は登場しますが、あくまでも全人類がテーマとなっていることが前提です。そのために、今後「律法」を語る時には、モーセ律法に限定されない、より普遍的なことが話されていることを忘れないようにしましょう。
12節で、パウロは「ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り〜広がったのと同様に」と語り始めます。この「ひとりの人」とはアダムのことですが、このアダムの出来事と同様に何が起こったのかについては(つまりアダムと対比されている存在については)語られず、この文は中断しています。続きは改めて18節から語られます。文章が不完全なまま、他の文章が挿入されているのは、パウロが霊感を受けつつ自問自答を重ねて理解を深めていくプロセスがそのまま記されているからでしょう。(パウロは机上で論文を校正しながら書いたのではなく、聖霊のインスピレーションを受けて感動しながら口述筆記していったのです)。
まず「アダムによって罪が世界に入り、罪によって死が入った」とあります。アダムの罪については、前回、創世記から確認しましたが、今回のポイントは、「罪が世界に入った」という部分です。ここでの「罪」は単数形で、様々な違反(複数)とは別のパウロ特有のものです。(部分的には所謂「原罪」と重なります)。その「罪」は、世界の外部から入ってきたもので、いわば非常に有害な「外来種」です。当時のギリシャ語世界で「世界」(コスモス)とは、一般的に「秩序ある宇宙」というような意味ですが、ここでは物理的な宇宙というより、人間を中心とした世界と理解してよいでしょう。その人間界に「罪」を招き入れたのは人間ですから、責任は人間にあります。同時に、それは外から入ってきたものであり、人間本来のものではないという点も重要です。この、「人間の責任」と「非本来性」という罪の二重の性質は押さえておくべき大切なポイントです。
パウロは続けて「死が入った」と言います。死は罪と一体で、これも「外来種」、人間にとっては非本来的なものなのです。この「死」は全人類に広がりましたが、一面それは、全人類に「外から」入って来たものであると同時に、全人類の責任でもあります。「全人類が罪を犯した」とある通りです。この「二重性」をどうにかすっきりした形で理解しようとして、いわゆる「原罪論」が展開されてきました。原罪については以前簡単に触れました。アダムとエバの欲望が生殖によって受け継がれるという古い説(遺伝説)や、神に従う意志を失った存在として人は産まれてくるという説などいろいろとあることを学びました。いずれにしても、大切なのは「説明」ではなく現実です。罪は人間の選択でもあり、非本来的なものであるにもかかわらず、現実に全ての人が陥っているものだという現実認識です。
その中で、罪が入ってきた(外来である)側面はこの後深く論じられますが、その前に、罪と死の関係、そして、それらと律法の関係について語ります。繰り返しになりますが、ここでの律法はモーセ律法に限定されたものではなく、全人類に共通することがらであることが重要です。まず罪と律法の関係です。これについては既に何度か語られました。律法は義をもたらさず、罪を認識させるものだというのが要点です。ここでもそれが繰り返されていますが、念のため、律法がなくても罪はあるということを確認しています。つまり、律法は罪を顕在化するということです。このことが事実であることの証拠として、パウロは、律法以前にも死があったと述べます。死の存在が、潜在的に罪があることを証明しているのです。「罪(単数形)」は死と一体ですが、律法によって現れる諸違犯(罪の複数形)は、必ずしも死と結びついてはいません。違犯には軽重があり、死刑がその中で最も重いものです。また、違反には、それを赦免するための仕組みもあります。パウロが語っているのはそのような違反ではありません。それは、「アダムの違犯と同じようには罪を犯さなかった人々(すなわち全ての人々)をさえ支配している死によってその存在があらわれる根源的な「罪」です。罪とは「的外れ」という意味であり、人間存在そのものが的外れになっている状態を指します。その結果、人間は非本来的な状態に陥っていて、それが「死」と呼ばれます。その「死」の目に見える部分が、肉体の死なのですが、人はそのような死しか通常見ることができません。しかし、人は肉体の死を通して、それよりも大きい「死」と向き合うのです。
その意味での「死」には、少なくとも三つの側面があります。一つ目は、神の前での「死」であること。二つ目は肉体だけでなく、人間の存在全体に及んでいること。三つ目は、それはある意味では外から来て人を支配していることです。一つ目は、創世記にあるように、それは神から宣告されたものであることから明白です。二つ目の「死の諸相」については、ローマ書全体(また聖書全体)から明らかになります。5章のこの箇所で強調されているのは三つ目です。すなわち、14節にあるように、死が支配するようになったという点です。この「支配」がキーワードとなります。では「死」が人類を支配しているというのは、どういう意味でしょうか。
もちろん、単純に、人は皆、必ず死ぬ(少なくとも肉体的には)という現実があります。しかし、生物には寿命がある自然現象としてだけ見るのであれば、それを受け入れるか、科学によって変えようとするか、どちらかしかありません。しかし、人の死は「自然現象」であると同時に、「外から来たで支配している」ものだというのが聖書そしてパウロの論点です。死は「最後の敵」なのです。その意味では、古代のミイラから現代の遺伝子工学に至るまで、人類は死と戦い、不老不死を追求してきた歴史があり、それは「死を安んじて受け入れよう」とする宗教や処世術と対立してきました。問題は、そのような不老不死の追求だけでは足りないということです。すなわち、神の前で死んでいる(いのちの木にアクセスできない)状態のままの不老不死は意味がないのです。ここに、「いのちの支配」がテーマとなり、キリストがそれをもたらすことを福音は告げるのです。