礼拝メッセージ要約

2023101日 「アダムとキリスト〜1」

ローマ書5章 第46

 

12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。 

13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。 

14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。 

15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。 

16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。 

17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

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5章前半で、それまで語られた「信仰による義」をまとめ、神への賛美をささげたパウロは、同じ前半部で触れられた「いのち」というキーワードを中心として、後半部から新しいセクションを開始します

(ここでは仮に第二部と呼んでいます)。第一部も人類の罪を描写して始まりましたが、この第二部も同様にあらためて「罪」の原点に戻ります。同じ話の繰り返しのように思えるかもしれませんが、「義認」という、やや法律的・客観的な観点から語られていた第一部に対して、「いのち」という、より実存的・霊的な視点から語られていきます。そのため、これからの議論は、ユダヤ人・異邦人といった区別がそもそも存在する前の、「人」「人類」という観点から進められていきます。(もちろん、その中でもパウロはユダヤ人の問題から完全に離れるわけではありませんが)。そこでパウロが取り上げるのが「アダム」です。このアダムとキリストを関連付けて話は展開していきます。

 

ユダヤ人・異邦人という区別以前の話といっても、もちろんパウロはユダヤ人には周知の聖書からアダムについて触れているのですから、異邦人である私たちは、まずアダムについて確認しておくことが必要です。言うまでもなくアダムは創世記冒頭に登場する、神によって創造された最初の「人」です。まず、この「アダムの創造」をどう解釈するのかということが問題です。大雑把に分けると二通りの解釈があります。第一は、いわゆる「聖書原理主義者(根本主義者)」の解釈で、アダムを含む天地創造を、字義通りに(物理的な事実として)読みます。そこでは、今から数千年前に、24時間X6日の間に天地万物が創造され、その最後に人(男と女)が造られました。この立場では、現代の一般的な物理学や生物学を否定する、いわゆる創造科学(創造論のことでない)が提唱されます。そして、その延長として、アダムとエバの話が続きます。他方、よりリベラルな聖書理解では、創造を信仰と霊的な真理の象徴として読み、必ずしも現代の科学と対立しません。そこでは、アダムを文字通り「人」として読み、いわば人の原型(あらゆる人に共通する存在)の表現と解釈します。(「アダム」という単語は「人」という意味です)。

 

この「保守(原理主義)」と「リベラル」の対立は、アメリカなどでは政治的な要素まで加わる根深い問題となっています。日本でも、保守から見ればリベラルは不信仰に映り、リベラルから見れば保守は狂信に映ってしまう危険があります。しかし、このような対立は不毛なので、自分自身の立場はあるとしても、そこに信仰を立脚すべきではありません。宇宙創成や人類の起源などの過去の出来事は、タイムマシンが存在しない以上、けして確定できないのですから、私たちは、過去がどうであれ、そこから、普遍的な信仰的・霊的な意義を汲み取るしかないのです。その意味では、やはりアダムを文字通り「人」として読み、すべての人に当てはまる存在、いわば人類の代表として理解する必要があります。

 

神による人の創造について、創世記1章では、「神はご自身のかたちに似せて人(アダム)を造られた」という文に続けて「男と女に造られた」とあります。この両方の文は同義とみなせるので、まとめると、「神は人(アダム)を、男と女として創造された」と読むことができます。このことから、アダムは「人」(人類の原型)を指していることがわかります。この1章の記述に続き、2章では、あらためて「人」の誕生が語られますが、ふたつの章の記述の関係は微妙です。2章では、「地」の情景描写が1章とは異なっています(ここでの「地」は特定の地域を指しているとも考えられます)。そして、まずアダムが土から造られ、しばらくしてから(禁断の木の実の戒めや、動物に名付けることなどを経て)、彼のあばら骨から「女」が造られます。この段階で、アダムは「男」と呼ばれます。そして男と女は結婚し、ふたりは「ひとつ」となります。ですから、神が「アダム」を男と女として創造したという1章のことばは、2章に書かれた以上のプロセス全体を指していると考えられます。アダムとは、そのような意味で「神のかたちに似せて」造られた存在なのです。

 

この「アダム」は罪を犯します。2章の記述からすると、まず「女」が蛇(サタン)によって惑わされ、「男」が罪を犯しました。蛇(サタン)の「禁断の木の実を食べれば神のようになれる」という言葉に「女」は惑わされ、傍にいたのに見て見ぬふりをしていた「男」が、自身に与えられていた明確な禁令を破りました。その結果、男と女は「恥」を知るようになり、サタンの処罰は来るべきメシヤの業に委ねられ、女には産みの苦しみ、男(というよりアダム)には労働の果てに塵に帰るという宿命が与えられました。これらの結果全体が、禁令を破る者に与えられる「死」であり、肉体の死はその重要な一部となっています。この「死」の描写は過酷ですが、冷静に見れば、それは人間の現状を率直に語っているに過ぎません。人間はそのような存在でありながら、なおも神の庇護のもとで生き続けています。その象徴が、裸の人間を、神が獣の衣で覆ってくださったことです。服を着ている動物である人間は、罪を犯しながらも神の憐みによって生かされ、来るべきメシヤを待っている存在なのです。

 

以上のことを霊的な視点で言い換えると、善悪の知識(基準)を神から切り離し、自身で所有して神のような存在になろうとした人間は、いのちの木へのアクセスを失い、霊的に死んだ者となってしまったということです。その「死んでいる」人間に聖霊を注ぎ、永遠のいのちを与えるために来られたメシヤ、それがイエスキリストです。そして、キリストはサタンの頭を砕き、人に自由の扉を開いてくださいました。それが福音です。

 

なお、この「アダムとエバ」の出来事については、様々な議論や誤解があるので注意が必要です。議論とは、神の全知と人の自由意志の問題、善悪の知識と言語の関係、男女の関係の問題、労働の評価について等、たくさんあります。また、誤解とは、エデンから追放された人間は神とのコミュニケーションを完全に失ったというものです。聖書に書いてあるように、「エデンの東」に追放されたアダムとエバも、またそれ以降の人間も神に祈り、時には神の語りかけを聞いていたのです。いわゆる「宗教性」を失ったわけではありません。それもまた、罪の中にある人間の姿です。すなわち、人間とは堕落した宗教的存在(世俗的イデオロギーも含む)であり、そのような人間を救うのがキリストなのです。