礼拝メッセージ要約

2023924日 「五章前半まとめ」

ローマ書5章 第45

 

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。 

11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

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改めて5章前半を振り返りましょう。信仰によって義とされた私たちの姿を描き、そのまとめとして、私たちは神を大いに喜んでいると告白しています。「大いに喜ぶ」とは、誇るという意味の言葉で、文脈から「勝ち誇る」と訳すことができるでしょう。もちろん、私たち自身ではなく神を誇るのですから、神の栄光を賛美しているのと同じことです。このように、5章前半は、壮大な賛美でまとめられ、その中で、賛美が生まれてくるのは、神のわざと恵みであることが明らかにされています。

 

ここで、5章前半の位置づけを考えてみましょう。長大なローマ書ですが、いくつかの部分に分けることができます。すぐにわかるのは、1章から8章、9章から11章、12章から16章までの3部でしょう。最初の部分は福音についての中心的な部分、次はイスラエルについて、そして最後は実際的な応用についての部分です。その中で、最初の部分は、さらに細かく分けることが可能です。1章前半は、挨拶とパウロがローマに行きたい理由などの個人的な内容で、いわば序章です。ただ序章と言っても、その中に数々のキーワードが登場し、全体の主題が提示されている重要な部分です。

 

続いて、1章後半からが第一部であると言えます。それは人類の罪について、その惨状を徹底的に描くことから始まります。この厳しい現状認識を土台としつつ、罪人を信仰によって義とみなして下さる神の恵みについて説きます。その中で、義認は律法によらないことを宣言し、その当然の帰結として、信仰はユダヤ人と異邦人との区別を超えていることを確認します。つまり、福音はモーセ律法を超えているということです。この点について、パウロはアブラハム、ダビデといったユダヤ人の歴史を形作った人々を引用し立証します。この「信仰による義」についての締めくくりが、この5章前半部です。その意味では、この箇所によって第一部が完了していると見ることができます。罪から始まり賛美に終わるという、救いの流れがここに現れていると言えるでしょう。

 

この、「罪から賛美へ」という流れは、5章後半から再び始まります。すなわち、アブラハムからさらにさかのぼり、アダムという原点に戻って罪の問題を取り上げるのです。そして、ここを第二部と呼ぶとするなら、その締めくくりは8章末尾の壮大な賛美ということになるでしょう。このパターンは、さらに9章から11章でも再現されますが、これらについては今後読んでいくことになります。ここで私たちが覚えておくべきなのは、「罪から賛美へ」という流れは、私たち一人ひとりにも当てはまる大切な教訓だということです。すなわち、賛美の原点は、罪の認識にあるのです。一般に、賛美は偉大にものに触れた時に自然に発生します。聖書にも、神の偉大さを素朴に賛美する言葉があふれています。私たちも、当然それを共有しています。しかしそれだけでは真の賛美とは言えません。世の人々が、偉大な人物の前にひれ伏し、「神」と呼んでいる状態の延長に過ぎないからです。神への賛美とは、小さいもの、弱いものが大きいもの、強いものを讃えるというだけではありません。あくまでも、罪赦されたものが赦してくださる神の恵みに感謝するところから始まるのです。

 

このことについては、詩篇130篇に、「あなたは赦してくださるからこそ、人に恐れられる」とあります。一般には、神のさばきが恐れの対象です。もちろん、神を侮ってはなりません。しかし、そのような「恐怖」とは違い、神の赦しは真の畏怖をもたらします。罪を借金に例えれば、多額の負債を免除してもらえれば、もちろん感謝はするでしょう。しかし、その免除のために何が必要だったのかを知れば、それは恐れ多い出来事であったと悟ることになります。ですから、素朴な感謝から畏怖へと進み、そこから賛美が湧き上がってくるのです。「誇る者は主を誇れ」とありますが、その「主」はあくまでも十字架でいのちを捧げられたキリストでなければなりません。

 

5章前半に戻ります。

ローマ書について、序、第一部、第二部などと分けているのは、もちろん便宜上のことであって、各部はそれぞれ有機的につながっています。5章前半については、前述の、その前の部分(信仰による義について)の帰結としての賛美なのですが、同時に、この後に続く部分、いわゆる第二部の導入の役割も持っています。そのキーワードが、10節に登場する「いのち」です。キリストの「血」「死」によってもたらされる「義認」は、その当然の帰結としてキリストのいのちによる救いを実現するのです。以前、アブラハムの箇所で「相続」について学んだ時、約束の地の相続から、永遠のいのちを受けることについて触れました。この「いのち」がテーマとして今回提示され、5章後半から8章にいたる第二部の話の中心となっていきます。ここでは、これまでの話と「いのち」との関連を確認しておきます。「義と認められる」という「法的な表現」、「相続する」という物的印象を与える表現、そして「いのち」、これらは一体の事柄なので、整理が必要なのです。

 

これを「領土問題」という例えで考えます。特定の土地が真に「領土」であるためには、第一に法的な正当性、第二に実効支配、第三に人々の生活がなければなりません。尖閣諸島は、法的に日本のものであると日本は主張していますが、実行支配の実態は微妙になりつつあります。そして、島民の生活はありません。ウクライナ南東部は法的にウクライナのものですが、ロシアが一部実行支配しています。また、侵攻前にもロシア系住民の生活がありました。また、実行支配していても、軍事基地だけしかなく、本当の住民生活が無いような場所もあります。このように、「法」「実行支配」「生活」の3者は一体のことがらなのですが、あえてその中心をあげるなら「生活」でしょう。それなしには、すべては絵に描いた餅のようになってしまいます。

 

今まで読んできたように、私たちは義と認められ、いわば法的に正当な神の相続人とされました。同時に、それは実際「恵みの場」にいることであり、そこでは神が実効支配しておられるのです。そのような「場」で実現していくのが私たちの「生活」です。ここで「生活」というのは、単に日常生活の諸々の出来事ではなく、文字通り「生きて」「活動している」ということです。すなわち「いのち」の発現であり、これ無しには、法的立場も恵みの場に導きいれられたことも無意味になってしまいます。キリストの代償的死と、キリストの血による清めという神の力は、「キリストのいのち」によってひとつとなり、そのいのちが私たちに注がれることにより、私たちは救われるのです。