礼拝メッセージ要約

2023917日 「義とされた者の姿〜4」

ローマ書5章 第44

 

10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。 

11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

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「キリストの血(十字架上の死)によって義と認められた」という福音の土台となるメッセージを、今回の箇所では「御子の死によって神と和解させられた」と言い換えています。「義と認められる」というユダヤ的な表現が、「和解」という、異邦人にも分かりやすい一般的な表現に入れ替わっています。この「和解」が今回のテーマですが、その詳細に入る前に、改めて「敵であった私たち」という言葉を確認しましょう。

 

パウロは5章の前半部で私たち自身の状態を、「弱い者」「不敬虔な者」「罪人」と描写してきました。これらのことは、自分自身が該当すると認めるかどうかは別として、この世界の惨状を観察する時に、理解できないことではありません。現にそのような人々に世界は満ち満ちています。その中で、弱い者を神は助けてくださるというのは受け入れやすい考えでしょう。しかし「不敬虔な者を義と認める」というのは逆説的で、理解が難しい神秘です。罪人をも愛してくださるというのは、心情的に期待することですが、真に実感するには、罪の自覚と聖霊の働きが必要ですから、これもまた神秘です。以上のような人間の状態は、結局「罪」の様々な側面を述べているのですが、その究極が今回の箇所にある「敵」という言葉です。神と人が敵対しているというのはどういうことでしょうか。

 

ここで「敵」とは「憎むべき者」という意味です。人間は神を憎んでいるのでしょうか。パウロはそうだと言います。常識的には、人は神を無視するか怖がるが、あるいはご利益の供給源かのように見ていて、「敵」とまでは思わないかもしれません。もっとも、西洋など、昔キリスト教国であったような所には戦闘的・徹底的な「無神論」があり、「神の死」を宣告し、神を掲げるあらゆる宗教を徹底的に攻撃する人たちがいます。しかし彼らにとって神は存在しないのですから、神を憎んでいるというよりも、宗教を憎んでいると言った方が正確かもしれません。(神を憎むには神は存在していなければならないのです)。パウロはもちろん、ここでも自分自身の体験を含めて語っています。ユダヤ人であるパウロにとって神の存在は当然のことであり、そればかりかパリサイ派の急先鋒として律法を実践し、神に対する熱心を現わしていました。それなのに、彼は自分自身が神を憎む者であることを悟ったのです。

 

この「悟り」は非常に深いものですが、私たちから見て理解しやすいのは外側の出来事です。すなわち、彼がキリストの弟子たちを憎み迫害していたということです。パウロは弟子たちに敵対していました。問題は、それが神に敵対することになるのかということです。パウロにとって、弟子たちに敵対することがキリストに敵対することであることは当然です。しかし、キリストが彼らの内で生きておられるというのは驚くべき啓示でした。さらに驚くべきは、そのキリストが彼の内にも啓示されたことです。そうなるとすべては、結局キリストとはだれなのかという問いに帰着します。キリストが神の御子であるならばパウロは神の敵であったのです。そしてキリストが神の御子であることは、十字架にかけられたお方が復活し、パウロの内に啓示されたから分かったことです。このように、十字架と復活の福音が啓示されたので、自分が神の敵であったことが分かったのでした。

 

問題は、これがパウロに固有のことなのか、それとも私たちにも当てはまることなのかということです。現代の日本人で、神に対する熱心の故にクリスチャンを迫害している人は多くはないでしょう。しかし、すでに触れたことですが、「内なるキリスト」は、見た目でわかるクリスチャンの内にだけおられるとは限りません。むしろ様々な人と共におられることが福音書からもわかります。もっと一般的に言えば、私たちが他人に対して行う悪は、それがすなわち神に対する敵対行為だとも言えるのです。その意味では、人に対する倫理的な行為と神に対する宗教行為は一体であり、切り離すことができません。

 

パウロが神に敵対していたのは、弟子たちに対する迫害だけではありません。それが回心の時点での問題であったとしても、その後の歩みの中で、パリサイ人としての律法追及そのものが根本的な問題であったことを悟ります。この深い問題については、7章などで中心的に論じられますが、ここで押さえておくべきなのは、宗教行為自体が神に敵対する可能性を持つという、普遍的な問題です。神と人とをつなぐはずの宗教が、人々を神から引き離すことは、まさしく神に敵対するという逆説です。前述の迫害に関することが、「人への倫理的罪が実は神への宗教的な罪でもある」ケースだとすれば、こちらは、「神への宗教的行為自体が罪である」という深刻なケースと言えるでしょう。そして、そのような「歪んだ宗教」は、いずれ人に対する倫理的な問題も起こすようになるでしょう。このように、人が神の「敵」であるという厳しい表現は重く受け止めるべきです。

 

そのような「神の敵」が、神によって、神と和解させられたというのが福音です。伝統的には、人の罪に対して怒る神を生贄や修行によって「なだめ」、怒りをおさめていただくことが、いわゆる「和解」とみなされます。これは、人間社会の仕組みがそのまま神と人との関係に当てはめた考え方です。すなわち、加害者が被害者に何かを支払うことによって、それ以上の追及が免除されるというものです。債務で例えるならば、完全な返済ができない者が、部分的な返済で勘弁してもらうようなものです。しかし、福音における神と人との関係はそれとは違います。和解を申し出るのが私たちではなく神の方です。パウロはローマ書以前にコリント宛の手紙で、この「和解」について書いています。要約すると、「神はキリストによって私たちをご自身と和解させ、その和解の言葉(福音)を私たちにゆだねられた。神が私たちを通して和解を懇願されているようなものだ」ということです。和解は神ご自身が備えられたので、私たちはその言葉を受け入れることと、その言葉を伝えることです。

 

「罪」と「義」がセットのように、「敵」と「和解」はセットなので、和解の福音を受け入れる前提として、敵の認識が必要です。そのため、必ずしもユダヤ的「罪」「義」の理解よりも、異邦人的「敵」「和解」の理解のほうが易しいとは言えないでしょう。頭での理解よりも、聖霊による示しが必要とされます。罪と義のメッセージとその点では同じです。いずれにしてもポイントは、義認も和解も神ご自身のわざであるということです。私たちはそれを受け入れるだけです。ただし、本来和解を求めるべき人間が、神からの和解を受け入れた事態を理解するのは容易ではありません。というのは、そのようなことは通常人間社会では起こらないからです。もし起こったとしたら、私たちの反応はまず驚きと戸惑いでしょう。そう簡単に納得できる話ではありません。そこで私たちは選択が迫られます。受け入れるか躓くかのどちらかです。そして聖霊の働きがなければ受け入れることはできません。

 

そしてパウロは、「和解させられた私たちはキリストのいのちによって救いにあずかる」と述べています。前段で、キリストによって神の怒りから救われるとあった部分が、キリストのいのちによって救われると言い換えられています。この「いのち」がここからのキーワードとなります。前段同様、この場合の「救い」は将来完成する救いの究極の姿を指しています。この点については8章で語られます。ここでは、「敵」と「和解」について、しっかりと確認しておきましょう。