礼拝メッセージ要約
2023年9月10日 「義とされた者の姿〜3」
ローマ書5章 第43回
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
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前節の最後に「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」という重大な句があることを学びました。神が私たちを愛しておられるということが、心情的に感じる以上に確かなものであるのは、それが神の具体的な行動によって現れているからです。パウロはここでキリストの死について改めて語ります。要点は、私たちが弱かった時の事であり、私たちが罪人であった時の事であり、それは、定められた時(神の時)の事であったということです。これが「神が私たちを愛しておられること」の根拠です。
このような根拠を改めて語るのは、前回学んだ「伝承」と「経験」の関係があるからです。「伝承」の中心はユダヤ的な背景のあるもので、キリストの死は、私たちの罪の赦しのための「犠牲」であるということです。モーセ律法で備えられていた様々な犠牲はキリストという完全な犠牲の型です。もちろんそのような犠牲を備えられたということそのものが神の愛の故であることは明らかなのですが、パウロはそのような動物犠牲との対比ではなく、「人がだれかのために命を捨てる」という、より倫理的な角度から語っています。当時のギリシャ文化でも、他人のために命を捨てることそのものは貴ばれていました。しかし、その他人がどのような人なのかが問題で、「弱い人(社会的評価の低い人)」のために死ぬことは論外でした。「(社会的・道徳的に)正しい人」のためでも考えにくいことです。「情け深い人」とは直訳では「(定冠詞つきの)善」ですが、単なる善人では「正しい人」との違いがないので、人というよりも、「大義」ととるか、あるいは本人にとって特別な人(恩人)と考えられます。そのような特別な人のためなら、進んで死ぬ人もあり得るだろうということです。
(ギリシャ世界に限らず、主君や共同体のために命を捧げることに敬意が払われてきました)。
このような人間の世界との対比でキリストの死の意味が語られます。上記のような人間の死は「高貴な死」と見做されますが、キリストの死はそうではありません。ユダヤの戒律を守るためとか、可愛い弟子たちを守るためとかといった「尊いと見做される」ことではなく、本来守るに値しない私たちのために死んでくださったのです。パウロは私たちの状況をいろいろな言葉で表現しています。まず「弱かった時」です。もちろん多くの人は自分の無力さを思い知らされる体験をします。そのような時に神に助けを求めるのは自然なことです。しかし、ここでパウロが語っているのは、キリストが死なれた時という一点についてです。そして、それは私たちがまだ弱かったのです。パウロは決して一般的な意味で弱い人間ではありませんでした。むしろ、生粋のパリサイ人として、非常に強い存在だったのです。そんな彼であっても、キリストの死という神の計画の中で、実は無力であったことに気づかされたのでした。この無力の実相については、ここでは語られていませんが、これまでの話から、神の前に義であることについて無力であったということが分かります。キリストが死なれた時に、パウロを含め、人類は無力だったというのが出発点です。
ですから、この「無力な人」とは、「かわいそうな人」という意味ではありません。そのことを明確するために、キリストは「不敬虔な者のために死んでくださった」と書いています。「不敬虔」については4章で学びました。「敬うべきものを敬わない」という意味ですから、「身の程知らずの思いあがった者」のことだと言えるでしょう。もちろんここで言っているのは、神に対してのことです。4章で、「不敬虔な者を義とみなしてくださる方」を神と呼んでいますが、「義とみなす」という、審判や司法を連想させる表現に対して、5章では、同じ事態について、「進んで死んでくださった」と、より人格的な表現を用いています。もちろん、進んでというのはキリストのことです。ここに、生贄の動物との決定的な違いがあります。
キリストが十字架に向かわれたのは、もちろん父なる神の御心に従ったからです。しかし、それは、運命にしぶしぶ従ったというのではなく、罪人を招き愛されるキリストご自身がそうされたのです。キリストの十字架を通して「神はご自身の愛を明らかにされた」のですが、その「神の愛」にはキリストの愛も含まれています。むしろ、父なる神と御子の愛は一つであり、その愛が私たちに注がれたのです。このあたりの消息は、ヨハネ福音書に詳しく書かれています。御父の御子が愛し合う、その愛の中に私たちが招かれているというのです。御父が御子を愛されるように、キリストも私たちを愛しておられます。これはまさに神秘そのものですが、詳細はヨハネ福音書にゆずります。パウロの強調点は、十字架は罪人である私たちのためだということです。それも、たまたまそうなったのではなく、まさに神のご計画そのものだというのです。それが「定められた時に」という言葉です。「神の時」というのは、単に「タイミング」のことだけではありません。歴史の中で、約2000年前のあの時期がちょうど良かった理由はいろいろと推測されています。交通手段が整っていたローマ帝国が、福音宣教の進展にとって有利であったという世俗的な理由もあげられます。しかし大事なのは、神の時の意味であり質です。
神の時とは「私たちが罪人であった時」です。それは、もちろん2000年前のあの時代に限った話ではありません。歴史的に見れば、「常に」人々は罪人です。しかしパウロがこのように言うのは、「私たち」を「自分のこと」として捉えているからです。パウロが罪人であったのは、一般論としてではなく、実際にパリサイ派の道を突き進み、イエス様の弟子たちを迫害していた時です。そのような時に神はパウロの人生に直接介入し、キリストを啓示されました。それは十字架の歴史的出来事からは年数がたっていましたが、パウロにとって十字架は過去の出来事ではなく、今まさに実現している事態なのです。彼が「十字架につけられたキリスト」がはっきりと啓示されたと書いてあるとおりです。よく言われるように、単なる時系列上の時間(クロノス)とは別に「神の時(カイロス」があり質が異なります。神の時は、神が呼びかけ介入される特別な時であり、ある意味では常に「今がその時」なのです。
ですから、このような時は一人一人に開かれています。問題はそれを受け取る「私」の方で、自分自身についての認識が問題となります。すなわち、「弱い」「不敬虔」「罪人」(さらには「敵」)であるとの認識が与えられる「時」が「十字架」の時でもあるのです。この「認識の転換」がすなわち「悔い改め」(メタノイア)です。この転換自体が人間の業ではなく神の介入の結果です。この介入を受け入れることが「信仰」です。ですから、「悔い改め」と「信仰」は一つの事態であり、キリストの十字架が啓示される神の時の出来事なのです。この出来事全体をまとめると「恵みによって救われた」(義と認められた)という表現になります。(「キリストの血によって」という句がありますが、ここでは「キリストのいのち」すなわち十字架と解釈しておきましょう)。その救いとは罪からの救いですが、その罪の結果である「神の怒り」からの救いであるのは必然のことです。「怒り」が登場するのは唐突に思われるかもしれませんが、罪とは、そもそも神が受け入れないものの事なのですから当然です。歴史上「義と認められた(信じた)」時は過去で、「怒りからの救い」は未来の事ではありますが、「カイロス」としては一つの事です。「主の名を呼ぶ者は皆(そして今)救われるのです」。