礼拝メッセージ要約
2023年9月3日 「義とされた者の姿〜2」
ローマ書5章 第41回
1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
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「神の栄光の望み」を誇っている私たちは、同時に「艱難も誇っている」とパウロは述べます。「神の栄光の望み」を新改訳聖書では「神の栄光を望んで」と訳しています。その場合、キリストの再臨によって明白になる神の栄光を待ち望むというニュアンスになります。反対に「神の栄光に与る希望」という意味にとれば、罪によって神の栄光に与れなくなってしまった人類が救われ、栄光に与れるという意味になります。どちらの解釈も可能ですが、今回の箇所との関連からすると、後者の方が理解しやすいと思われます。その場合、「神の栄光の望み」と「艱難」の両方を同時に誇っていることになります。というのは、艱難が忍耐、忍耐が練られた品性、品性が希望(失望に終わることのない)を生み出すからです。この「希望」が、神の栄光の「望み」と繋がっているのは言うまでもありません。
私たちが神の栄光に与ることは神の業であり神の約束ですから、人間の力でどうなるものでもありません。しかし、現状とは何の関係もなく、ある日突然そのことが起こるということでもないのです。義と認められた私たちが神の栄光に与るまでの過程があり、その一面がここに記されているのです。この過程全体を、キリスト教の伝統的な表現では、義認、聖化、栄化と呼んでいます。義認とは言うまでもなく、信仰を通して恵みにより義とされたこと(過去)、聖化とは、赦された罪人が、神の働きにより次第にきよめられていること(現在)、そして栄化は、復活しキリストと同じ姿に変えられること(未来)を意味します。この「過去」「現在」「未来」は、ただ時計のように勝手に時が進行していくのではありません。過去と未来を繋ぐ、具体的なプロセスがあるのです。それが「艱難」「忍耐」「練られた品性」というプロセスであり、それが「聖化」の具体的な内容です。この「聖化」の中にあるということが、すなわち、義認から栄化への中にいるということですから、そこから「ゆるぎない希望」が生まれてくるのは当然と言えるでしょう。ですから、パウロはそのプロセスの出発点である「艱難」をも誇ると断言できるのです。
それにしても、聖化の出発点が艱難であるというのは重要なポイントです。艱難は通常「迫害」を指しますが、言葉の意味そのものは「狭い所に閉じ込められる」という感じです。パウロを始め多くの弟子たちが文字通り「投獄」された事実もありますが、文字通りではなくとも、周囲からの圧力を受けている状態はよく起こることでしょう。もちろん、悪を行ったために圧力を受けるのでは話になりません。そうではない、いわゆる不条理な圧力を受けている場合の話です。そのような圧力から逃げ出すことが不可能で、それに耐え続けるならば、そこに「耐性」が生まれます。忍耐とはそのような耐性のことです。ただし、このことは艱難にあっても一切逃げ出すなという意味ではありません。イエス様は大患難がエルサレムを襲う時に逃げるようにおっしゃいました。とは言え、もちろん逃げている時も迫害にあっている事には変わりありません。ただ迫害下での対応について杓子定規に考えることはできないことは覚えておくべきでしょう。
「耐性」が培われ、また証明されているというプロセスを通して、「練られた品性」がもたらされます。練られた品性とあるのは、「テスト済合格」という意味の言葉です。「本物」と訳しても良いでしょう。ですから、一連のプロセスの結果として、圧力に耐え合格したものということになります。そのような「本物」を「練られた品性」と意訳しているわけです。しかし、「艱難」の中で圧力に耐えていても、それで自動的に「本物」になるわけではありません。むしろ、ある時点で耐えることに限界を覚え、場合によっては病んでしまうこともあり得るでしょう。私たちは、単に忍耐力をつけるための修行を行っているわけではありません。
では、私たちは忍耐の中で病むことなく、反対に練られていくためには何が必要なのでしょう。それは、5節後半にあるとおり、聖霊によって心に注がれている神の愛です。(5節冒頭の「なぜなら」は、単に「希望が失望に終わることがない」理由を説明しているというより、艱難も誇っていることの根拠を語っていると考えられます)。
ここで、「聖霊」という、福音のキーワードが登場します。後に8章で主題として語られますが、ここでは単に提示されているだけです。パウロは他の手紙でも聖霊や聖霊の賜物についてたくさん語っているのに、ようやくここから語られるのは不思議な感じもします。ひとつ考えられる理由は、聖霊についての誤解・曲解が起こりやすいので、まずは信仰・義といった土台が確立される必要があるということです。不思議な出来事、深層心理のことがらなどを安易に聖霊に結びつけてしまう危険は常にあります。霊だからといって何でも信じて良いわけではないのです。聖霊は常に十字架・復活を土台とした神の義と一体の事柄であり、それは信仰を通しての恵みであるというのが全ての基本です。
このことは、物事を全て自分の心情で解決しようという危険を避けることにつながります。危険とはこのような事態です。私たちは苦難を耐えようとし、つぶされないためには神の愛が必要だと認識します。しかし、苦しみの中で神の愛を「感じる」ことは心理的には難しいことです。そこで神の愛を何とか感じようと、自分の心を探るのですが感じられません。そのため、自分は神に愛されているのかどうかが分からなくなってしまうという危険です。この箇所の「愛」も「アガぺ」ですから、いわゆる「愛している」「愛されている」という心情を超えたものです。むしろ、人間の判断や気持ちよりも「客観的な事実」であり、神に属する事柄ですから、それを人間の中に見出そうとしても無駄なのです。ですから、私たちが目を向けるべきは自分の心ではなく神ご自身であり、十字架・復活という神の出来事です。ですから、この節の後も、パウロは愛の気持ちについてではなく、キリストの出来事について続けて語るのです。
それでも、私たちとは別次元の「神の愛」が私たちの「心」に注がれているという事実は重要です。それは、どこか遠く天の上にあるのではありません。これは、「私たちに与えられている聖霊」によることです。言い換えると、聖霊が与えられていることが、すなわち神の愛が注がれているということなのです。この「聖霊が与えられる」ということ自体が福音の中心テーマですが、ここでは単に提示されているだけです。聖霊が与えられるというのはどのような事態を指すのかについては、それこそ様々な議論がありますが、大切なのは、聖霊についてだけ切り離して考えるのではなく、まさにローマ書全体の流れのなかで理解することです。すなわち、「聖霊が与えられること」「神の愛が注がれていること」「艱難も誇ること」「恵みに信仰によって導き入れられていること」「不敬虔な者が義と認められること」「もはや律法の下にはいないこと」など、これら全てがひとつであるということです。これらを分離して、単に自分の心情の問題としてはなりません。「福音」とは、人ではなく「神が救い」であるという知らせであり、その知らせはもはや「情報」ではなく、キリストに具現されているのです。「主の名を呼ぶ者はだれでも救われる」所以です。