礼拝メッセージ要約

2023827日 「義とされた者の姿」

ローマ書5章 第40

 

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。 

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 

忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「信仰による義」の成立について徹底的に説いてきたパウロは、ここから、その義とされた者の姿を語ります。ここで「信仰によって義と認められた私たち」とありますが、この「私たち」は同胞ユダヤ人ではなく、ユダヤ人と異邦人の区別なく、義とされたすべての者を指しています。その「私たち」は、まず「神との平和を持っています」。直訳すると「神に向かっての平和」です。ここで「平和」というキーワードが登場します。ギリシャ語の「エイレーネ」で、手紙の挨拶にも使われ、「平安」と訳されることが多いです。また文字通りの「平和」を指すこともあります。ただしこの言葉は、ユダヤ人世界でおなじみの「シャローム」の訳語ですから、改めて「シャローム」の内容を確認する必要があります。

 

「シャローム」は、平安(心の状態)や平和(戦争のない状態)だけでなく、それ以上の内容を持っていて、一言に訳すことは難しいです。ある人は単に「和」と訳したり、「和合」と意訳したりします。というのは、シャロームは、神との間に妨げられることのない交わりが成立し、豊かな祝福と繁栄が実現している状態を表すからです。いわゆる「人格的な交わり」を土台とした幸福です。ですから、「神との平和」を単に「神との闘いが終了した」とか、「神の前で心に平安が持てる」ということに限定しません。あえて「神に向けて」というニュアンスがあるように、そこには神に向かって心を向けている人の状態が前提とされています。いわゆる神との交わりが成立しているのです。そのような「神との和合」からもたらされる豊かな祝福と繁栄が、義とされたものに用意されているということです。

 

この「シャロームを持っている」というのはユダヤ社会において重大な宣言です。というのは、このような「シャローム」は終末の時に実現すると考えられてきたからです。とくにイザヤ書には、「平和」についてのたくさんの預言があります。そこには、目に見える物質的な繁栄も含まれたシャロームのビジョンがあります。そして、それは新約時代になって消えてしまったわけではありません。これについては8章で語られます。それでも、目に見えるとは言い難い形で、すでにシャロームが与えられたというパウロのメッセージをどう受け取ったらよいでしょうか。それを理解するためには、繁栄というシャロームの結果ではなく、シャロームの本質である神との平和(調和)そのものに目を向けなければなりません。この平和を実現することを「和解」と言います。この和解については次の節で語られていますので、そこで改めて読みます。

 

この神との平和(神に向けてのシャローム)をどのように持つにいたったのでしょうか。それはキリストによって(キリストを通して)与えられたのですが、具体的には、信仰によって「私たちの立っているこの恵み」に導き入れられたのです。言い換えると、私たちは恵みの場に立っている(恵みの中という立場にある)のですが、それは信仰において、キリストを通して恵みの場へのアクセスを持っているということです。ここで「場に立っている」という表現が重要です。(原語では単に恵みとあり、場という言葉はありませんが、恵みを物としてではなく場として捉えることが大切なので補充しています)。まず「立っている」とあるのは、実質的に「生きている」と言い換えられます。私たちは恵みによって生かされているというのは、しばしば言うことですが、恵みを時々天から降ってくるもののように考えるよりも、「場」として捉えるほうが良いでしょう。例えば、「磁場」(磁力線が働いている場)に鉄が置かれると、鉄は磁性を帯びて引きつけられます。場の外では単なる鉄ですが、場の働きに与ると、具体的な動きをするようになります。私たちも、恵みという場の外では単なる物(血肉)なのですが、恵みの場に置かれると生きたものとなり、神の求める方向に動くようになるのです。この恵みの場は、もちろんキリストによって実現している場ですから、パウロの用語である「キリストのある(in Christ)」と同じことであり、まさにそれが、福音で言うところの「神の国(支配)」に他なりません。

 

私たちは、自分が想像していたよりも大きな祝福をいただいた時に「恵まれた」と感じることが多いのですが、そのような時と場合による恵みではなく、たとえ気が付かなくても常に働いている「恵みの力の場」に導かれていることを知る必要があります。ここで注意するのは、「導き入れられた」ことを、過去に起こったことして既成事実のように単純に考える危険です。この箇所は、「恵みの場へのアクセスが与えられている」という文章です。アクセス権がある、いわば、IDとパスワードが与えられている状態なのですから、いつでもどこでも恵みの支配に委ねることが可能だということです。しかし、いくら権限があってもそれを使わなければ意味がありません。私たちは、恵みの支配から離れようとする誘惑に打ち勝たなければならないのです。恵みの支配から離れるというのは、恵みではないものの支配下に留まるということです。パウロはそれを「律法の下にある」と表現していますが、これも、この後の重要なテーマになります。

 

今のところは、その詳細に進むのではなく、恵みの場に留まる者の姿を読むことになります。それは「神の栄光を望んで大いに喜んでいる」姿です。ここも直訳しましょう。「大いに喜んでいる」とあるのは、「誇っている」という言葉です。「誇り」については、ここまで何度も語られてきました。律法によらない義、働きによらない義が現れた以上、もはや人間が神の前に誇ることはできません。逆に言うと、もし人が自分自身の誇りにより頼む限り、神の義を受けているとは言えません。それでは私たちは何を誇るのでしょうか。それは言うまでもなく「神」です。「誇るものは主を誇れ」とある通りです。ここでパウロは、より具体的に「神の栄光を望んで」と書いています。直訳すると、「神の栄光の望み」を誇るのです。この「神の栄光の望み」も、8章で具体的に語られることになります。このように、5章の冒頭で提示されていることの多くは8章で完結されていますので、順に読んでいきましょう。

 

ここでは、その詳細よりも、私たちの誇りが、人間から神に移されているという原点を確認することが重要ですが、そのことと、「恵みの場にある」ということとを一体に理解することが必要です。というのは、人間は一般的に偉大なものの前にひれ伏すという習性がありますから、ただ「神は偉大なり」と叫ぶだけではだめなのです(そのような宗教はたくさんありますが)。もちろん、神は神である以上偉大なのは当然ですが、そのような一般論は何も役に立ちません。なぜなら、神の偉大さに真に触れたならば、人は生きていることなどできないからです。まして、罪人ともなれば、神の栄光に触れれば焼き尽くされる他ありません。言い換えると、人を誇る無神論も、単純に神を誇る有神論も成立しないのです。ただ、キリストによって無条件に罪が赦される恵みの場に生きていることによってのみ、私たちは神を誇ることが可能となります。可能になるだけでなく、現実に働いているその恵みに感謝し、喜ぶことになるでしょう。